菅谷館

菅谷館跡は、約13万平方メートルに及ぶ広大な面積を持つ複郭式の平城。館跡のある台地の南側は、都幾川の流れにより浸食されて切り立った崖となり、東と西側には、台地に直行する谷が幾筋も形成されており、館跡は、これらの地形を巧みに利用して、複雑な縄張を構成している。その起源は明らかではないが、鎌倉時代・元久二年(1205)にはすでに畠山氏の居館になっていた(『吾妻鏡』)。

「鎌倉街道」が近くを走る要衝の地であり、古代から戦国期まで長く重要視された城郭である。「埼玉県立歴史資料館」の資料によれば、街道に沿うこの地域には、平安時代から戦国時代にかけての寺院、板石塔婆、城館跡、古戦場などさまざまの史跡や文化財が集中し、菅谷館跡を中心に展開されてきたとともに、松山城鉢形城をはじめとする30余もの城館群の中核を成すものであった。

戦国時代に菅谷館の名は歴史に出てこないが、現在見られる遺構は明らかに戦国期の大規模なものであり、豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅亡するまで使用されたのであろう。

 

(【左写真】本丸址で非常に広い 【右写真】本丸と二の丸間の空堀址)

 

(【左写真】空堀は大規模で横矢・枡形状になっているところも多い。)

 

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