小岩嶽城

1530年ころに仁科氏が築城したという。中世の古厩郷の領主古厩氏の宿城と考えられ、城域は、今の小岩岳集落も含めた広範囲とされ、現在も集落内には空掘の一部と地割が見られる。また本郭は約1平方キロメートル、その平は南北135メートル、東西40メートル、北に天満沢、南に富士尾沢と空掘を控えた自然の要害である。

全面に三段の郭、山頂に至る間にいくつかの帯郭、掘切を設け、水源もあり矢竹も自生し、峯の物見は安曇野を一望に収める有名な山城。

『高白斎記』によると、天文20(1551)年10月27日武田晴信の軍勢に攻められ、放火された。翌天文21年8月12日の激戦で城主・仁科盛親は自害し、8月14日落城。

この時の戦いの様子は、『勝山記』(妙法寺記異事ナシ)に「打取ル頚500余人、足弱(婦女子・老人のこと)取ル事数ヲ知ラズ。」と悲運な最後が記されている。

 

(本郭付近より狼煙台を見上げる。右写真は本郭にある戦没者の供養塔。)

 

(本郭。かなりの面積で神社もある。右写真は本郭の大手門付近の碑で、手前にわずかに石垣が確認できる。)

 

(二の郭。荒れているが広い。右はそこから見た本郭で、コケに覆われているが石垣がいまでも残っている。)

 

 (山麓の模擬門と全景。山頂には狼煙台や見張り台があり、城址は山の中腹にあった。)

 

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