伴野城

野沢城、伴野氏館とも。標高676m、比高3m。

鎌倉時代以来伴野氏の館跡で、後の野沢城の本丸にあたる地域である。

南の中央に入口を設け、西南の高地に物見櫓を設けたと推定される。この館跡は室町から戦国時代にかけて伴野氏が館跡を本丸として二の丸、三の丸、出丸等を設け土居を築き、堀をめぐらす等順次規模を拡大した(『日本城郭大系』『天正古図』)。

その後更に防衛のための前山城を築いて本拠をそこに移したが、天正十一(1583)年芦田信蕃のために野沢城も前山城もろとも攻略され、兵火で破壊された。
しかし、旧館本丸だけはかろうじて旧形をとどめることができた。

江戸時代以降は官庫、陣屋、岩村田藩出張所等概ね官公地として存続したという。

現在は市民の公園となっているが、本丸の曲輪とそれを取り巻く土塁が何とか残っているという有様である。

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

(現在の航空写真)

 

長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡-分布調査報告書-』掲載の概念図。右は戦国末期の古図。

  

 (城址。土塁と堀址は見られるが、住宅街の公園になっている。)

(城址公園の城跡碑)

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