織田有楽斎屋敷

現在の有楽町付近には織田信長の実弟である織田有楽斎の屋敷があったと云われている。周辺は銀座にも近く、繁華街と化しているが、唯一、その地名に名残を留めている。

織田有楽斎は、織田信秀の十一男(八男とも)として天文16年(1547)に生まれる。幼名・源五郎。のち長益と名乗る。天正十年(1582)に摂津島味舌に二千石を拝領した。本能寺の変の際は二条城にいて、信忠自害のあと、城を逃れて岐阜城に脱する。はじめ織田信雄を支持して豊臣秀吉に反するが、のち秀吉に近侍して従四位下、侍従となり、剃髪して有楽斎と号し、お伽衆に加わわったと云われる。関ケ原の合戦では東軍に属して、石田三成の臣・浦生喜内を討ち取った。これを世に「有楽の武編末の初物」と云い、いくさに臨む最後になって初めてあげた首級であると揶揄された。大阪冬の陣では大阪城に籠城し、落城の後は京都の寺院に隠居した。元和7年(1621)病歿。有楽斎は茶道を早くから嗜み、利休門下「七哲」の一人に数えられる茶人大名であった。

(数寄屋橋交差点)

 

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