大妻氏館

平安時代にこの地を治めていた大妻氏の居館址で、180m×150mの単郭であったという。

『梓川村誌』によれば、周辺には「番場」「掘屋敷」「政所」「鍛冶町」などの地名が残り、士師、破片、須恵などの出土品があったというが、現在では全てが消滅している。跡地には昭和12年に県が建てた石碑があるのみで遺構は見当たらない。

大妻氏当主であったとされる大妻太郎兼澄は諏訪の神氏の出で、住吉庄(三郷村、梓川村、豊科町)の荘官として大妻の地に居館を構えていた武士で、承久三年(1221)後鳥羽上皇・朝廷側と鎌倉幕府との承久の乱の際、大妻の地を所有していた後鳥羽上皇について敗れ去ったという。兼澄亡き後、大妻一族の後裔は木曽に追われた一族と、土佐に追われた一族があったとされる。大妻氏が失脚した後、この地は小笠原氏のものとなり、戦国時代・武田信玄の侵攻まで統治を続けることになる。

大妻氏の子息は現在までも存続し、大妻女子大学(東京都千代田区三番町12)を創設した大妻コタカ女史1884年【明治17】1970年【昭和45】)は、土佐・大妻氏の子孫であるという。

居館址は県道278号沿い、「大妻口」バス停の近くにあり、近隣には大妻神社も位置している。


 (館跡の航空写真)

(館跡の石碑)

(跡地。遺構は残されていない。)


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