加藤清正屋敷

福島正則ととも猛将で名を馳せた加藤清正は現在のホテルニューオータニ付近に下屋敷を構えていたという。関ヶ原の合戦後は、井伊家の中屋敷に引き継がれたとされる。現在は江戸城の外堀上に位置しているが、その旧状を伺い知れることはできない。

加藤清正は、永禄五年 (1562) 名古屋市中村区で、父・清忠と母・伊都の間に生まれる。幼名を虎之助。母が秀吉の母の伯母で、齢三歳で父が逝去すると秀吉に預けられたとされる。初陣二十歳で、その後も軍功を重ねる。賤ケ岳の合戦では福島正則とともに七本槍の筆頭に数えられる。天正十一年 (1583) 3,000石を与えら、同十三年従五位下主計頭に叙任。同十六年、肥後国の領主・佐々成政の改易により、小西行長と共に拝領されて熊本城主となり、25万石を領す。同年小西行長の要請を受け、天草の志岐城を攻略する。文禄元年 (1592) 朝鮮の役では、京城を陥落させ、会寧においては朝鮮国の王子二人を捕らるなどし鬼将軍との異名で脅威とされ、「虎退治」の伝説を生む。しかしその時期に石田三成と反目し、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでは肥後にあって東軍に属し、西軍の将・小西行長の宇土城、立花宗茂の柳河城を攻め落とす。戦後、小西行長の旧領及び豊後国一部を加えられ54万石の大名となる。このような苛烈な人生を送りながらも秀吉への恩顧を忘れることなく、慶長十六年(1611)二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見を実現するなど、豊臣家のための奔走に暇がなかった。同年624日未明、熊本城において病歿。脳溢血とも毒殺ともいわれる。

(江戸城外堀。右の森が屋敷跡)

 

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