赤塚城

千葉家古城、城山とも。康正二年(1456)築城。標高25m、比高10m。

下総国の守護・千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げた。康正二年(1456)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入城する。寛正四年(1468)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築いた(『日本城郭大系』)。

その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、後北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年(1590)まで威勢を張った。

城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上に位置する。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分がニの郭、そしてその西側が三の郭とする見解もあるようだが、詳細は不明。『江戸名所図会』には、空堀が残り、出丸・内丸には水をたたえた堀があると記されているが、現在ではどこを指しているのかも分からない(『現地案内板』『日本城郭大系』等)。

板橋区立美術館のある裏山が城址。なお、近く乗蓮寺には「赤塚城二の丸跡」の石碑があるが、その根拠はよく調べがつかない。

 

(【左写真】 乗蓮寺の二の丸石碑 【右写真】本丸石碑)

 

(【左写真】 本丸址 【右写真】城址遠望)

 

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