芦田城

標高806m、比高60m。倉見高井城、木宮城とも。

鎌倉時代、滋野系芦田氏により築城。文明十八年(1486)坂城の村上氏が小県、佐久地方に侵入するに際し、小県・依田氏、高井・米持氏と連携して攻城し陥落した。城は依田氏の所有に帰し、芦田と改名して支配を継続。五代目・信守は武田信玄の配下となり川中島や東海地方に戦功をあげた。六代・信蕃は、武田氏滅亡後に徳川家康の佐久統一の命を受け奮戦するものの岩尾城攻めで戦死した。信蕃の戦功により六万石の小諸城主に抜擢された。

古町の東、標高806メートルの半独立の小山にあり、城の平面形は円形で、遺構が見られる範囲は直径300メートルほどになる。頂上に土塁を巡らしたほぼ方形の主郭を設け、その周囲は麓に向かって腰郭や段郭をいくつも設けていく。芦田城の大きな特徴は北側にある。東側は主郭の下に二段の腰郭があり、その下に堀を隔ててL字を裏返した形の外郭が作られている。その外郭の北に一部二重になっている竪堀があり、古町の麓まで伸びている。特に外側の竪堀は途中で屈曲させ、古町の集落まで続いている(『現地説明板』『立科町資料』)。

立科町古町から見える丸山が城址。県道40号の「芦田古町」バス停付近から公民館に進み、正面に見えてくる。展望台や登山道も整備されているが、山の裏手に回って登山無く楽に訪問することもできる。

 

(【左写真】本郭は土塁が囲んでいる。【右写真】本郭土塁は2-3mの高さ。)

 

(【左写真】本郭には帯郭があり、そのまま二の郭へ続く。【右写真】二の郭から見た本郭。10m近い切岸。)

 

(【左写真】二の郭には石積みが見られるが遺構だろうか?【右写真】城址より見下ろす。)

 (城址遠望。山麓の公民館から見上げる。)

 

戻る

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送