原畑城

室賀城とも。豪族・室賀氏の代々の本拠。

室賀氏の起源は鎌倉時代の清和天皇の孫経に始まるといい、後に東信濃に流れた。その後北条氏の家臣として活躍し、戦国時代になると村上氏に所属して、上田原の合戦では村上義清を助けたが、後、武田信玄に降る。当主であった室賀山城守信俊は、はじめ経俊と称していたが、信玄から一字を与えられて信俊に改名したとされる。その後、長篠城田中城に在城し武田氏に尽くしたが、天正十二年(1584)武田氏滅亡後に真田昌幸の謀略によって殺害されたという。しかし一族は滅亡せず、徳川氏に属し、旗本となって幕末まで存続した(『室賀氏の歴史』)。

室賀氏は詰城として、跡部城(三頭山)、伊勢崎城(摺鉢山)、笹洞城(下洞山)にそれぞれ山城を建設したという。居館は、室賀地区から坂井に抜ける道と坂城に抜ける室賀峠の分岐点にあり、遺構はないものの、かつて原組公民館の一角に「室賀氏屋敷跡原畑城」の碑が立っていたという。また近く中組の県道273号沿いに室賀氏の墓所がある。

上田原の合戦で勝利した村上義清は、室賀峠から葛尾城に凱旋したと云われ、この地区が交通の要衝であったことを窺わせている。

(宮坂武男著『図解 山城探訪』掲載の縄張図)

 

(付近の道路脇に眠る室賀氏代々の墓)

(室賀城から葛尾城へ抜ける室賀峠には、上田原合戦の帰陣時に村上義清が鎧をかけて休んだという松の跡地があり、現在、「室賀史跡公園」として整備されている。)

(ここが、城址付近。かつて室賀は、塩田平などから善光寺に参拝する人々が通り、相当にぎわっていたようである。また室賀峠付近には村上義清が福澤城(三水城か)という山城を築いたとする史料もあり、重要な街道だったのだろう。)

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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