楽巌寺城

布引城・額岩寺城・楽岸寺城とも。標高756m、比高208m。築城時代など詳しい歴史は不明だが、佐久・小県地方の土豪・楽巌寺氏の本拠。

天文十二年(1543)武田晴信が佐久地方に攻め込み、それによって長窪城主・望月昌頼はこの城に避難している(『高白斎記』)。
寺氏は望月氏と友好関係を結んでおり、隣接する堀の内城の布下氏とともに、村上義清の影響下にあったという(平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い』)。

天文十七年(1547)上田原合戦で武田氏を破った村上義清は佐久に侵攻し、それに呼応した反武田勢はこの城を鍬立、改修している(『高白斎記』)。

その後も楽厳寺城は反武田氏の拠点だったが、塩尻峠合戦勝利で攻勢に出た武田氏に対して、天文十八年(1549)三月、ここに籠城していた望月源三郎が城を出て帰順し、なおも抵抗していた弟・望月新六も五月には甲府に出仕・降伏している。
それでも布引氏や楽厳寺氏は同城に拠って頑強な抵抗を継続していたことから、同年八月五日武田氏の攻撃を受けている(『高白斎記』)。この時に落城したとみられ、両氏は村上義清を頼って砥石城に入り武田氏に最後まで屈しなかったという(
戸石城の戦い『甲陽軍』)。

城址は別荘地となって大きく改変されているが、今でも随所に遺構が確認できる。千曲川の峻険な布引渓谷側に主郭を構えて、防御の弱い諏訪山側には大空堀と土塁を配したようである。

城址へは、布引観音を目指して、県道153号を進み、大久保地区「中山団地」バス停付近の西に向かう車道へ曲がる。ほどなく、布引観音方面に分岐するが、道なり山頂を目指し、登りきった別荘地に遺構がある。

 

 

(【左写真】郭にある石碑。古いもののようで文字は消えかかっているが供養碑らしい。ほかにも同様の石碑がいくつかあるが、ここが城址であることを示す物は見られない。)

(【右写真】明らかに中世城郭の郭跡。ここが主郭だったのかは詳らかではないが、15m×20mほど。なお北《縄張図の下側》に進むと車道をはさんで大規模な郭と空堀がある。建築方法が異なるように感じられ、そちらは後年の改変があったとも思われる。)

 

(【左写真】左側が主郭の土塁。空堀は水を湛えている。【右写真】現在も池があり、水の手だったと思われる。後方は土塁。)

 

(【左写真】車道が走っているが、もともと虎口だったのだろうか?車の所に供養碑がある。【右写真】車道によって破壊された土塁の断面。)

 

(【左写真】小規模な空堀・堀切。明らかに中世城郭の遺構。【右写真】大手と思われる登山道。)

 

(【左写真】城の北側の大規模な空堀。遺構だとしたら城の規模は相当なもの。)

(【右写真】北側の郭は非常に規模が大きく、遺構ならば戦国後期の平城のごとき連郭式の高度な縄張り。)

 

(【左写真】別荘が進出しているが、その手前にも大きな空堀らしき地形がある。)

(【右写真】正面の頂上が城址。「中山団地」バス停から望む。電信柱のところを右折する。)

 

戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送