日岐小城

標高620m、比高130m。

日岐氏は仁科氏の一族で、明応元年(1492)頃、生坂谷へ進出し、裏日岐へ居館を構え、盛慶・盛高・盛武などが約100年住む。日岐城はその時築城され、天正十年(1582)小笠原氏に降参、同十八年(1590)小笠原氏に従って関東に移るまで居城した。本郭の広さ20m×28m、東側に石垣、平地に供養塔と城の守護神・八幡社跡がある。北側に大堀割・二郭・三郭と見張りの地に浅間神社跡がある。南側には小堀割二条と大堀割一条があり、敵を防いでいる(『生坂村教育委員会・現地説明板』)。

城址は最近(2005年9月)の土砂崩れで主郭が大きく崩落している。ここには石垣が残っていたということで非常に残念である。それでも堀切などが良く残る戦国期の史跡で、日岐大城よりも高度な縄張りである。

登山道は犀川・生坂ダムの畔、水島公園の脇にある。登山は15分程度。

  (信濃史学会編『信州の山城』信毎書籍出版センターの縄張図)

 

(【左写真】主郭跡。一段高い八幡社跡地が残る。【右写真】主郭の供養塔)

 

 (【左写真】主郭に一部残る石垣跡。【右写真】主郭東側は大きく崩落している。)

 

 (【左写真】主郭と副郭間の堀切虎口。【右写真】同堀切は幅が3mほど。)

 

 (【左写真】副郭。10m×10mほど。【右写真】副郭の土塁はわずかに残る。)

 

 (【左写真】「かじ平」と呼ばれる郭の虎口。【右写真】日岐氏館からの遠望。)

日岐(ひき)氏の歴史

日岐氏(日岐小城)は犀川の左岸を守り、対岸を守った丸山氏(日岐大城)とは一族であって、その区別はつかないという。いずれも森城主・仁科氏の一族であり、明応元年(1492)以前にこの地に入っている。

戦国時代、武田信玄が直接に日岐を攻めたという史料はない。しかし天文十九年(1550)七月仁科氏が武田氏に出仕しており(『高白斎記』)、これに連なったものとみられる。武田氏統治30年間は平穏であったが、天正十年(1580)三月に武田氏が滅亡すると織田氏が、六月からは上杉氏が支配するところとなった。当時、日岐小城は日岐盛武、日岐大城は兄・織部盛直が守っていたが、盛直が上杉氏の下に逃れている最中、八月八日頃に小笠原貞慶が盛武を攻め八月十三日に降伏させている。これを聞いた盛直は一族率いて大城に入り、城兵を説き伏せて日岐大城は再度上杉氏に属するようになった。上杉景勝はこれを喜び八月二二日付で盛直に感状を与えている。それを知った小笠原貞慶は再び攻略にかかり、八月二九日付で島立大学と犬飼半左衛門に日岐大城攻めを命じているが、攻略困難であったらしく、九月六日には貞慶自身が日岐へ出馬する旨を犬飼氏に報じている。日岐勢はよく戦ったが、小笠原氏の猛攻であえなく落城し、盛武は兄とともに上杉氏へ逃亡、翌年八月には貞慶へ降伏している。

以後、小笠原氏に忠誠を誓い、天正十二年(1582)八月には麻績城攻めに参戦、天正十八年(1588)六月の小田原城攻めでは貞慶の先鋒として活躍。同七月に小笠原氏が関東下総古河城に移封されるとそれに従ってこの地を去っている(『信州の山城』)。

(登山経路図・国土地理院発行の20万の1地勢図)

 

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