日岐大城

標高980m、比高470m。

築城年代は不明だが、大永年間152128)には仁科氏六代目仁科明盛の二男・仁科盛慶が城主であり、その後、丸山肥後がこの地を仁科氏から賜り修復した。丸山兵庫、丸山丹波などが城主を勤めるが、小笠原氏の属したことから武田信玄によって滅亡させられ、武田家臣・降幡備前が城代に命じられたという(『信府統記』)。武田氏滅亡後、天正十一年(1583)には織部佐盛直が城主になっており、上杉景勝に属していたとされる。

城址は非常に険しい大城山の山頂〜尾根一帯に築かれている。本郭は15m×13mの平地で人工は加えていない。北側比高15m下に小郭が二段と尾根伝いに50m下に自然地形の二の郭があり、更に300m北に物見岩がある。その北は山上の広い平地で三の曲輪とされる。また本郭から南方約500mに標高990mの京ヶ倉があり、山頂に12m×6mの平地があって物見台とされる(『信州の山城』)。なお、本郭の北の小郭には井戸跡があったと伝わるが現在は確認できない。

城址は極めて高度な尾根に位置し、自然地形を利用した簡素な造りである。このような場所であればそもそも大規模な築城を要さなかったのだろう。尾根には複数の平地があって、どこまでが城域か確定させるのは困難だが、戦国末期には廃城になっていたと思われる。

登山は非常に厳しい。国道19号の「下生坂」バス停と公民館の間を大城山(標高919m)へ曲がる。畑の小道を突き当りまで進み、右折すると案内板と登山道がある。ここから一気の登山で尾根(はぎの尾峠)に出るまで約40分、そこから尾根伝いの京ヶ倉に向かい、いくつかの急登を経て15分で主郭。

 (信濃史学会編『信州の山城』信毎書籍出版センターの縄張図)

 

(【左写真】主郭だが広くはない。【右写真】主郭の一段高い平地。物見台だったものか。)

 

 (主郭北側の平場。削平状況は明確でなく、切岸でもなさそうだ。)

 

 (【左写真】その一段下の郭。こちらはハッキリした遺構である。ここに井戸があったとされる。)

(【右写真】二の郭。尾根の地形で、人工が加えられたのかは不明。しかしここからは急斜面になり重要な虎口を為していたものと思われる。)

 

 (【左写真】尾根上の物見台。こんな岩はそこらじゅうにある。)

(【右写真】尾根、はぎの尾峠の平地。『信府統記』によれば、ここは三の郭といい、事実であれば城域は相当に広い。

 

 (【左写真】はぎの尾峠への山腹にある物見岩。「のぞき」という地名が残っているという。【右写真】登山道入口)

(城址から望む。生坂ダムが見え、その奥の山が日岐小城。)

(大城山遠望。左のピークが三の郭、中央が主郭。奥の山は京ヶ倉。)

日岐(ひき)氏の歴史

日岐氏(日岐小城)は犀川の左岸を守り、対岸を守った丸山氏(日岐大城)とは一族であって、その区別はつかないという。いずれも森城主・仁科氏の一族であり、明応元年(1492)以前にこの地に入っている。

戦国時代、武田信玄が直接に日岐を攻めたという史料はない。しかし天文十九年(1550)七月仁科氏が武田氏に出仕しており(『高白斎記』)、これに連なったものとみられる。武田氏統治30年間は平穏であったが、天正十年(1580)三月に武田氏が滅亡すると織田氏が、六月からは上杉氏が支配するところとなった。当時、日岐小城は日岐盛武、日岐大城は兄・織部盛直が守っていたが、盛直が上杉氏の下に逃れている最中、八月八日頃に小笠原貞慶が盛武を攻め八月十三日に降伏させている。これを聞いた盛直は一族率いて大城に入り、城兵を説き伏せて日岐大城は再度上杉氏に属するようになった。上杉景勝はこれを喜び八月二二日付で盛直に感状を与えている。それを知った小笠原貞慶は再び攻略にかかり、八月二九日付で島立大学と犬飼半左衛門に日岐大城攻めを命じているが、攻略困難であったらしく、九月六日には貞慶自身が日岐へ出馬する旨を犬飼氏に報じている。日岐勢はよく戦ったが、小笠原氏の猛攻であえなく落城し、盛武は兄とともに上杉氏へ逃亡、翌年八月には貞慶へ降伏している。

以後、小笠原氏に忠誠を誓い、天正十二年(1582)八月には麻績城攻めに参戦、天正十八年(1588)六月の小田原城攻めでは貞慶の先鋒として活躍。同七月に小笠原氏が関東下総古河城に移封されるとそれに従ってこの地を去っている(『信州の山城』)。

(登山経路図・国土地理院発行の20万の1地勢図)

 

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