早川城

標高46m、比高12m。

早川城跡は、古くから「城山」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人・渋谷氏の城と伝えられている。しかし文献資料がないことから、その実態は明らかではない。綾瀬市教育委員会では平成元年から平成六年度にかけて学術調査を行い、堀切・土塁・物見塚・曲輪等の多くの城郭関連遺構が発見され、県内でも有数の保存状態の良好な中世城郭であることが明らかとなった。また城郭が構築される以前には、縄文時代や古代の集落が営まれていたことも判明している。(『綾瀬市・現地説明板』)。

戦国時代には、後北条氏の持ち城となり、現在の縄張りが施されたと思われる。後北条氏滅亡後には、徳川家康に属した石川重久の陣屋が置かれたという(『新編相模国風土記稿』)。彼はこの地から大阪の陣に出立し、その後、元和五年(1619)に歿している。

城址は「早川城山公園」として整備されており、神奈川県の城郭にしては良好に遺構が保存されている。かつて周辺は湿地帯であったらしく、堅牢な城郭だったことを窺わせる。

 

(『日本城郭大系』掲載の縄張図)

 

 (【左写真】主郭。相当に広大である。公園化によって改変もあったか。【右写真】物見櫓跡

 

  (【左写真】主郭の土塁。ところどころに残存している。【右写真】帯郭は現在歩道として使われている

 

  (【左写真】「土橋」。現在でも主郭への虎口となっている。【右写真】「土橋」の空堀

 

  (【左写真】「土橋」の空堀はそのまま竪堀に。【右写真】「大空堀」。良好に保存されている

 

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