内山城

標高860m、比高80m。

永正年間(1504〜1521)に大井美作入道玄岑が築城とされる。その後天文十五年(1546)に武田信玄は佐久の諸城を奪って上原伊賀守昌辰を配した。
天文十七年(1548)佐久に侵入した村上義清の軍としばらく攻防戦が続いたが、信玄自信が諏訪から佐久へ出馬しこれを退けた。

天正十年(1582)に武田氏が滅亡し、佐久の諸城が次々と徳川氏の手に帰していくなかで内山城も同十一年に家康の麾下依田信蕃らの手によって攻略された。

比高80メートルに及ぶ断崖上にあるお城の縄張りは比較的よく保存されており、石塁も各所に残っている。
ほぼ三角状をした本丸の北に一段ずつさがって二の丸、三の丸が続き、更に小さく築かれたいくつかの廓を経て、掘切、水の手がある(『日本城郭大系』)。

その山頂が平らになっていることから城山であるとすぐに分かる。麓にある園城寺にある城址案内板に従って20分程度の登山。

  

(本丸址と三の丸から本丸を望む。山頂付近の城址はそこそこの規模である。)

   

(二の丸から本丸を見る。右は本丸にわずかに残る石積み。)

  

 (本丸から内山の町を望む。登山はかなりキツイ。右は全景で、城址である山頂が平らになっているのが分かる。)

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

(佐久・志賀周辺の城郭分布図)

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