石田城

平安時代末期に名将・石田為久によって築城。三浦党石田氏の発祥の地。三浦義継の子のうち、四男・義実は岡崎城に置かれ、為久は石田に城郭を築き、石田姓を名乗った。

元暦元年(1184)木曽義仲の横暴に、源頼朝の討伐軍は近江国粟津原で合戦に及んだ。この際に、為久はただ一騎で敵陣の駆け込み、その矢で義仲を射止めたという。その後、鎌倉幕府の御家人となるが、宝治元年(1247)一族の三浦泰村が幕府に乱を起こすと、石田氏も参与し、北条時頼の大軍と合戦、大敗を喫して滅亡した(『神奈川の城』)。

石田城がどのようになったかは不明だが、戦国時代には後北条氏旗本四十八将の藤田氏がこの地を領しており(『小田原衆所領役帳』)、石田城主であったと思われる。

城址は、石田の舌状丘陵の先端部であり、円光院からその裏山で、周囲を水堀が囲んでいたと考えられる。近年まで土塁と空堀が残っていたというが、現在は宅地化の開発が進み、明瞭なものは無くなった。なお、水堀の水源「水神様」は今でも湧き水をみるが、戦国時代、軍馬を洗う場所であったとも伝承される。

 

(【左写真】円光院 【右写真】円光院の背後が城址だが、マンション等が建ち、遺構は失われた。)

 

(【左写真】遺構は明瞭ではないが、ここは空堀の名残りか。【右写真】水堀の水源「水神様」)

 

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