成瀬城

この地は古くから付近の住民に「城山(しろやま)」と呼ばれてきた。近くに根古屋という地名もあり、中世の城跡であると思われるが、城主については、はっきりしない。平安末期から鎌倉初期にかけて、この地を所領したといわれる横山党の鳴瀬四郎太郎の居館であったものを、後に小田原北条氏が改修したものと思われる。

大永四年(1524)北条氏綱が江戸城を攻略し、南武蔵・相模の支配権を完全に握った頃、小机城の出城として修築され、天正十八年(1590小田原本城の開城とともに廃城となったと思われる。

昭和四十年代後半から城山を含む付近一帯の開発が進み、空濠・土塁・櫓台など、城郭遺構の大半が消滅した。現在残されているのは城郭の一部であり、実際の規模はもう少し大きなものであったと思われる。昭和四十七年(1972)町田市教育委員会によって発掘調査が行われ、また昭和六十三年(1988)および平成元年(1989)には町田市教育委員会の呼びかけに応えた「成瀬城をしらべる会」による市民主催の発掘調査が行われた(『町田市教育委員会・現地説明板』)。

城址は、恩田川にせり立つ丘陵に位置し、その要害ぶりを垣間見せているが、遺構は無さそうだ。城山公園として近隣住民の憩いの場になっている。

 

 (【左写真】城山公園。曲輪の名残りだろうか。【右写真】恩田川沿いに城址遠望。)

 

 (【左写真】城址石碑 【右写真】現地説明板)

 

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