青山城

標高265m、比高180mの山城。割谷城とも。青山地区と下里地区の大字境に位置する。城址は尾根を巧みに利用し、標高265mの山頂部に築かれた本郭を中心に、南西に二の郭、南東に三の郭をコの字状に配し、それぞれの郭は深い堀切で画されている。また、本郭の南東側及び二の郭の東側には帯郭がよく残存している。

築城起源は明確ではないが、『青山家家譜』によれば鎌倉時代に藤原氏の末裔がこの城に在拠して青山氏を名乗って鎌倉幕府・関東管領に累代使え、また『関八州古戦録』には永禄六年(1563)「松山城へは上田案楽斉、同上野介朝広を還住なさしめ、青山、腰越の両砦とともに堅固に相守らせ」とあり、すでに戦国時代には松山城の支城であったことが分かる(『小川町教育委員会資料』『日本城郭大系』)。

城址は比企郡小川町の仙元山の隣の峰の頂上にある。東に2kmほどで小倉城、西に2kmほどで腰越城があることから、それらを含めた後北条氏の松山城と鉢形城との連絡ネットワークの拠点のひとつとして現在の遺構に改修され、小田原城の役で松山城が落城するとともに廃城に帰したのであろう。

城址へはいくつかの道がある。見田地区から仙元山の登山道で行くのが確実かも知れないが、一番近道なのは青山地区の県道30号の「矢の口」バス停を山間に曲がって踏み切りを越えて左に曲がると仙元山の登山道がある。ここから20分ほど登ると尾根に出るので、仙元山頂上方向と逆に進むと城址への案内板がある。

遺構の保存状況は良好で、特に堀切は深い。ただ、縄張りは中世的な荒々しいもので、この地域の諸城とは一線を画くようにも感じる。

 

(【左写真】本郭。土塁で囲まれる。 【右写真】二の郭。本郭とは堀切、土塁で隔てる。)

 

(【左写真】本郭の石積み。土塁上の配備されている。 【右写真】搦め手の堀切は深い。)

 

(【左写真】堀切・切岸の側面図。岩盤を削っている。 【右写真】城址遠望。正面の山頂。)

 

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