岩槻城

岩槻城(★★埼玉県さいたま市岩槻区太田)

長禄元年(1457)に古河公方方に対抗するため、扇谷上杉氏が家宰の太田道真・道灌父子に築城させたのが起源という説があるものの確証はない。他に上杉氏の家臣とする説、古河公方方の忍城城主・成田氏との説も有力視される。

太田氏は主家・扇谷上杉氏と争っていた古河公方・足利成氏に対抗した。道灌謀殺後は孫の資頼が城主となり、以後四代に渡って居城とした。上杉氏の没落と後北条氏の覇権を決定づけた天文15年(1546)の河越城合戦の時には、城主太田資時は守勢の北条方に、弟の資正は上杉方に属し、骨肉の争いをする。この合戦によって扇谷上杉氏が滅ぶと、太田氏は上杉氏の領地を奪って、独立した戦国大名への道を歩み始め、永禄四年(1561)以降、上杉謙信が関東に進出すると岩槻城を継いだ資正は謙信方の有力武将となり名を馳せる。しかし、後北条氏の優位は揺るがず、次第に太田氏は孤立。次代の氏資は父を追放して後北条氏に服属し、氏資が永禄十年(1567)三舟山合戦で戦死して太田氏が断絶すると、岩槻城は後北条氏の直接支配するところとなる。

天正十年(1582)頃に北条氏房が入城し大規模に改修。天正十四年の古文書に「何れの御領所方も男その郷に一人も残さず」とあるように、領内から労働力となるすべての男が駆り出されて、豊臣政権の来攻に備えた城の改修工事が行われ、また、城下町を囲む大構が築かれた。天正十八年(1590)の小田原城の役では、浅野長政らの2万の大軍により520日から始まった総攻撃で城兵の多くは討ち死にし、2日後に落城。その後、家康の関東入部後は譜代の重臣が入城し、高力・青山・阿部・板倉・戸田・松平・小笠原・永井と続き、大岡氏が城主の時に明治を迎えた。また、岩槻城は、家康を祭る日光東照宮に将軍が参拝する日光社参の際の宿泊城となり、岩槻はその宿場町としても栄えていたという。

本丸などの主郭部は市街地に完全に埋没して遺構は残っていないが、太田氏時代の旧城部分(現在の城址公園)である新曲輪・鍛冶曲輪に空堀、土塁などの遺構がよく残る。尚、移築された黒門、裏門(城内での位置は不明)が公園内にある。案内板を見る限りでは水城であり、かなり広大な城域をもっていたことが分かる。

 

2015年6月18日訪問

 

(【左写真】城門。黒門とも呼ばれ現存する貴重な遺構だという。【右写真】裏門とされるが元位置は不明だという。江戸後期に修繕された。)

 

(【左写真】新曲輪の土塁。かなりの規模だ。【右写真】付近の障子堀。いまは埋め戻された。)

 

(新曲輪から鍛冶曲輪への道。高い土塁に囲まれた上、クランクしている。)

 

(【左写真】鍛冶曲輪外の「馬出し」とされる場所。遺構はよく分からない。【右写真】付近にある石碑。)

 

(【左写真】新曲輪の馬出しとされる場所。【右写真】新曲輪の虎口にはかなり大きな空堀が残っている。)

 

(【左写真】新曲輪の中心は野球場などになっている。【右写真】新曲輪の北側。この辺りは戦国時代は沼だったとされる。)

(竹沢曲輪の辺りだろうか?すっかり地形は改変されており、旧状は分からない。)

 

(【左写真】本丸跡。地名も本丸と残る。しかし遺構は全く残っていない。【右写真】本丸の遠望。傾斜があるのは名残りだろうか。)

 

-以前の記事-

 

(【左写真】城址碑 【右写真】空堀址)

 

(【左写真】黒門 【右写真】裏門)

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