山口城

児泉城とも。平安時代末期の築城と伝わる。もともと居館として始まった山口城は、室町時代に城郭として大改修を受け、本丸を中心として東西に郭を有し、からに東北部にも曲輪を持つ多郭式の城郭であったという(『日本城郭大系』)。

山口城の築城者といわれる山口氏は武蔵7党村山党の出身で、村山頼家の子家継が平安時代末期の入間の地方に居住して歴史が始まっている。家継は「村山小七郎」と名乗っていたが、山口地区に居住したので山口氏を名乗るようになった。戦国時代の山口氏であるが、『小田原衆所領役帳』には「山口平六」なる者が認められ、40貫文を領していた。山口氏は戦国時代にはこの平山城よりも堅固な根古屋城を築き、その本拠を移転させたといわれている。

『所沢市史』によれば、「周辺は悉く水沢地で囲まれている。当時の城郭としては実に要害の地と言わねばならぬ」とされている。

城址は県指定旧跡であるにも関わらず、現在では線路が貫通し、城址の中心部はスーパーマーケットが建っている。わずかに土塁と石碑をもってここが城址であると窺がわせるものの、ひどい破壊にあった顕著な悪例と言える。県道55号、西部狭山線下山口駅の近く、山口小学校の交差点に城址はある。

 

(【左写真】線路側の土塁 【右写真】城址はスーパーと化した)

(発掘時の全景写真。現在ほとんど破壊された。)

 

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