湯川城

湯川城(長野県茅野市北川)は、南北の渋川と滝の湯川の間の高台にあった広い城で、枡形城・原ノ城を含む。

両城の間には。1キロ余の深い壕があり、砦の沢と呼ばれ、土塁の跡も残る。天文年間、武田信玄の築城といわれ、大門峠の棒道筋で、佐久方面への侵攻や、川中島出兵等の拠点として利用された(『湯川区・現地説明板』)。

この地は、南北朝時代には大門街道の宿場として早くから繁栄していた・その後、甲州武田方や諏訪方の要所となり湯川城が築かれ、諏訪神社の上社と下社の重要な神領ともなった(『湯川区・現地説明板』)。

枡形城は、天文十一年以後、武田信玄が大門峠を越え、東北信濃に進出した時、軍勢の足溜まりとして設け、広さ150m×100m、大土塁で四辺を守り、南側には堀を通し、北側は滝ノ湯川を利用した(『日本城郭大系』)。

周辺には、信玄が築いたとされる棒道や、「信玄のお茶清水」、湯川城の見張台ともされる「経塚」跡などが残る。城址は功徳寺の裏手で、至る所に説明板が設置されている。

(参考サイト『信玄を捜す旅』)

(現地説明板)

枡形城

 

 

(【左写真】城址碑 【右写真】現地案内図

 

(【左写真】現地案内板 【右写真】枡形城だが、遺構は見られない。

 

(【左写真】「砦の沢」は天然の沢を堀として利用したものか。【右写真】見晴台跡ともされる「経塚」。かつて高さ2mの塚があったという。

 

原の城

 

(現地案内図)

 

(【左写真】現地案内板 【右写真】原の城だが、耕作地になっている。

 

(【左写真】空堀跡と思われる場所。【右写真】大手口と伝わる場所付近。

 

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