鬼場城

標高907m、比高75m。

築城年代は不明だが、城主・矢ヶ崎氏の村の中心が延宝四年(1676)に移動しており(『諏訪郡諸村旧蹟年代記』)、その頃、最初に本拠とされていた齢松山城から鬼場城が戦略上の本城となったと思われる。しかし、その遺構からは、戦国時代、諏訪氏一族が築城のものを、武田氏が改修したようである(『信州の山城』)。

二条の大堀切を擁する主郭は26m×15mで、背面には櫓台も兼ねる2mの大土塁があり、三方も高さ1mの土塁で囲まれている。内部は狭く、東側に虎口を守るための小郭を置き、その下に二の郭がある。二の郭の北側一段下に雨戸溜めの窪地があり、さらに三段の帯郭をみる。ただ付近は明治時代に開墾されたようで、遺構の峻別は困難である(『信州の山城』)。[鬼場]の語源はお贄場(にえば)が訛ったもので、諏訪明神にたてまつるお供え物を整えるところという。鬼場橋は豊平、湖東、北山地区の要地で、この橋を切り落として領地を守った歴史ともいわれる。

城址は、概ね旧態を良く残している貴重な遺構で、城山団地からのハイキングコースまたは鬼場大橋脇の県道192号(蓼科道路)から直接登ることができる。

(参考サイト『信玄を捜す旅』)

  

(宮坂武男著『図解 山城探訪』掲載の縄張図)

 

(【左写真】城址碑 【右写真】主郭。土塁が囲っている。

 

 (【左写真】搦め手の虎口部分。【右写真】搦め手の城内。まず浅い空堀がある。

 

(【左写真】搦め手は大規模な二重掘切を配す。奥に主郭が見える。【右写真】大堀切は圧巻の規模。

 

(【左写真】二の郭は鉄塔が建ち破壊の憂目に。【右写真】二の郭には帯郭が巻いている。

 

(【左写真】大手口には段郭らしき地形も認める。【右写真】城址遠望

(ここから一気に5分ほど登ると城域へ)

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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