志賀城

標高880m、比高170m。築城年不明。

志賀城主・笠原新三郎清繁は武田信玄に対して徹底抗戦の姿勢を崩さず、天文十六年(1547)夏には武田勢に包囲されてしまう。当時27歳であった信玄の本隊は桜井山城に置かれたという。

笠原清繁は上州上杉憲政に援軍を要請し、その部下である金井秀景が率いる3000の兵が援軍として来るが、武田勢は2000人で志賀城を抑えたまま残りの兵で小田井原にて上杉軍を迎撃して、これに圧勝する。

小田井原で討ち取った3000の首を志賀城の周りに並べて見せて威嚇したので、城方の士気は落ち、城主らは討ち死にし、生き残った女・子供も甲府に運ばれて売られたらしい。また、かつて城址より多数の人骨が発掘されたともいう(『日本城郭大系』)。

県道44号に雲興寺の案内板があり、寺の裏手の墓所脇に山へ登る登山道がある。

  (信濃史学会編『信州の山城』信毎書籍出版センターの縄張図)

  

(【左写真】いくつか見られる堀切の址 【右写真】本丸址。荒れ果てており道も不明瞭だ。)

 

(【左写真】本丸のわずかな石積み 【右写真】本丸下の郭を巻く石積み)

  

(【左写真】複数の外曲輪 【右写真】登坂道に見られる石積みだが疑問の余地もある。)

  

(【左写真】いくえにも重なる郭を望んだもの 【右写真】石積み址だが何の遺構かは不明。焼けて茶色くなった石が見える)

(井戸址もしくはかまどの址であろうか)

  

 (【左写真】城址遠望。この山の山頂に城址。【右写真】は近くの小田井原合戦地。)

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

(佐久・志賀周辺の城郭分布図)

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