井川城

小笠原貞宗は建武の新政の際、信濃守護に任ぜられ、足利尊氏に従って活躍し、その勲功の賞として建武二年(1335)安曇野郡住吉荘を与えられた。その後、信濃へ国司下向に向い守護として国衛の権益を掌握し、信濃守護の権益を守る必要からか、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたと思われる。井川館を築いた時期は明確ではないが、『小笠原系図』には貞宗の子政長が元応元年(1319)に井川館に生まれたと記されているので、鎌倉時代の末にはこの地に移っていたものと考えられるがはっきりしない。井川の地は薄川と田川の合流点にあたり、頭無川や穴田川などの小河川も流れ、一帯は湧き水が豊富な地帯である。現在の指定地は、地字を「井川」といい、頭無川が壕状に取り囲んで流れており、主郭の一部と推定される一隅に櫓跡の伝承がある小高い塚がある。地域に残る地名には、古城,中小屋のように館や下の丁,中の丁のように役所の存在を示すものもある。また、これらのほかに中道の地名もあり、侍屋敷の町割跡、寺などの存在から広大な守護の居館跡が想像される(『松本市教育委員会・現地説明板』)。

城址は松本市井川城の広正寺の南、田畑の中にあって、塚のような塁が残っている。戦国時代、小笠原氏、武田氏も使用したという文献も見られるが、明確な遺構は無い。

 

(【左写真】城址にある小祠 【右写真】城址遠望 

 

(現地説明板)

 

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