白駒城

標高802m、比高178m。物見城とも。

鎌倉時代、仁科義重の家臣・樋口兼時が築城。のち袖上上野介がここに拠ると伝えられている(『日本城郭大系』)。

日岐城の背後、山背を西へ2.5qほどの所に登波離(とばり)橋の険があり、その西400mに白駒城がある。犀川筋への交通路にあたり、日岐城の西の守りを担当したといわれる(『図解 山城探訪』)。

城址は、郭、空堀などが比較的良く残っている。中心部を車道が貫通しているが、その反対側にも遺構と思われる平場や堀切が見られる。街道を扼す要害として戦国期も使用されたのであろう。県道51号の「池田1丁目」交差点を275号に入り、登波離橋方向に登っていく。登りきった左右に城郭らしい遺構が見られ、そこが城址。

(宮坂武男著『図解 山城探訪』掲載の縄張図)

 

(【左写真】付近車道にある句碑 【右写真】ここが城址と示す案内板

 

(【左写真】主郭。土塁は無さそうだ。【右写真】主郭から副郭を見下す。

 

(【左写真】主郭と副郭の間の堀切 【右写真】副郭

 

(【左写真】副郭の西側には大規模な横堀が残っている。【右写真】道路を挟んで向こう側には「二の丸」がある。

(「二の丸」の堀切跡)

登波離橋

 

(【左写真】現在の登波離橋 【右写真】登波離橋は30m以上の高さに架かる。)

登波離橋伝説

白駒城主・樋口行時は鎌倉時代中期の人で、その正妻を「ふじ女」といい別に妾妻「きよ女」がいた。きよ女はふじ女を亡き者にしようと企て、正応四年4月15日花見の会を催したが、その折り、橋からふじ女を落とそうと狙っていた。これを察したふじ女は、きよ女の袂と自分の袂を10針ぬいあわせておく。宴が終わっての帰り道で、この時とばかりきよ女はふじ女を橋から突き落とした。ふじ女に続いてきよ女も谷底へ落ち、2人とも絶命。行時はこれを悲しみ、非を悔い出家して行知法師と名を改め、2女の冥福を祈った。

そして10針が転じて「登波離(とばり)」と呼ばれるようになったという(『現地説明板』)。

 

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