天正寺仁科氏館

東西180m、南北120m。荒神堂の館とも。

仁科氏が館の内に居館し、平地の開発をすすめるに従って、現天正寺の場所に居館を移したのは鎌倉時代中期と推定されている。周囲に小郭を配置して本郭を固めるといった古式の築城法を用い、平城で規模も小さいが、外堀・内堀の2重の堀や土居を廻らせた例の少ない居館である。ふたつの郭に分かれ、主郭は西側の二重の堀の中である。外堀跡は、北側と東の水田によく残り、その内側の土居跡も明瞭で、内堀跡は御所堰の流路に添っている。天正十年(1582)仁科氏滅亡後、その菩提を弔って天正院をつくったといわれ、寺域であったため遺構が残されている(『大町市資料』)。

現在、良く遺構が残されているのは、主郭の北側だけである。ここの堀跡は幅11mで、一度に掘削されたのではなく、2-3に亘って北側で拡張されたものである(『信濃中世の館跡』)。

仁科氏は、信濃西北の大豪族であったが、戦国時代、武田信玄によって乗っ取られてしまう。名族を継承したのは信玄の子・仁科盛信であったが、天正十年三月に高遠城で討ち死、武田氏が滅亡するとその跡を継いだのは仁科氏の分家・渋田見長盛(渋田見城主)であった(『信濃国道者之御祓くばり日記』)。

その後も、仁科氏の遺臣はそのまま山城や居館に残されたままである。戦国の動乱の中、織田信長に寝返った木曽氏の侵攻を、平穏に見届けたといわれる(『信濃中世の館跡』)。

跡地は、寺域となって、往時を偲ぶものは少ないが、北側の堀は比較的良好に残っている。この堀では近年まで子供達が水遊びをしたという(『現地説明板』)。

 

(【左写真】城址碑 【右写真】天正寺 

 

(【左写真】北堀。かすかに窪んでいるのが分かる。【右写真】北堀に見られる土塁状の土盛。

(現地説明板)

 

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