三日市場城

標高875m、比高120m。大宮城、宮原城とも。

仁科氏の重臣・沢渡氏の居城。大文字一揆の中に沢渡五郎の名が初見で、生島神社の起請文に沢渡盛則の名が出てくる。千間氏と共に姫川筋で活躍し、仁科氏滅亡後は、小笠原貞慶に属し、下総国へ従っている(『図解 山城探訪』)。また、沢渡盛方は、天文二十一年中塔城の攻防後、武田信玄に従属したが、その後、不明になったという(『信州の城と古戦場』)。

伝承によると、天正年間、武田氏により、城館は破壊されたというが、その後も使用されたと思われる(『図解 山城探訪』)。

神城三日市場集落の重文に指定される神明社の背後の小山に立地する。主郭は22m×13mの長方形で、西側に土塁の跡がある。これを取り巻いて腰曲輪5,6が東西にあり、南に馬出し様の小曲輪と、左右を土塁で囲み東に虎口を開く三の郭がつき、2-3段の小平地を経て、大手の四の郭へつながる。このことから大手道は神明社から南の尾根筋を登っていったと思われる。また、主郭と上幅9mの空堀を挟んで北に33m×26mの二の郭があり、その背後には二条の堀切を配す。城域はそれ程広くもなく、高度もないが、まとまりのある実に効果的な縄張りで、当地方の代表的な城郭である(『図解 山城探訪』)。

遺構は戦国時代そのままの状態で残っている。特徴として、武田氏流の放射線状の竪堀が連続し、甲州白山城や深志山家城などと共通した縄張りであることが窺われる(馬場廣幸『戦国の山城』銀河書房)。二つの街道が合流する要衝の地であり、長期に亘って改修を受けた城塞なのであろう。

城址へは、神明社の背後から頂上を目指して登っていく。特に登山道は無く、ひたすら登るだけであり、15分程で到着することができる。

(宮坂武男著『図解 山城探訪』掲載の縄張図)

 

(【左写真】主郭には複数の帯郭が巻く。【右写真】主郭下には武者走り状の地形もある。)

 

(【左写真】周囲には放射線状の竪堀が連続する。【右写真】竪堀は横堀と交差している。)

 

(【左写真】主郭・二の郭の間の空堀。【右写真】その空堀は上幅9mと大規模。)

 

(【左写真】主郭から見た二の郭。【右写真】二の郭にも若干低い平場が見られる。)

 

(【左写真】二の郭の下方に見られる帯郭。【右写真】二の郭先の堀切。)

 

(【左写真】さらに堀切が配置されている。【右写真】搦め手から、二重堀切を経て主郭を見上げる。)

(城址遠望)

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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