飯森城

標高851m、比高130m。一夜山城とも。

飯森城は、姫川の左岸、一夜山山頂にある。弘治三年(1557)七月五日、平倉城で武田晴信(信玄)の攻撃に遭って討ち死にした飯森十郎春盛が城主であった。しかし、『信府統記』に「飯森殿腰掛城」と記されたように、一時的に居城した程度と思われる。春盛は、姫川盆地の南端に居館を構えていた沢渡氏とともに信濃の名族仁科氏の支族である(『日本城郭大系』)。

城の規模は、主郭は南北90m、東西45mで、北に土塁があり、その東の続きに物見と思われる高所がある。主郭の西側には防御施設はなく、平地が一段みられるだけである。三の郭には北と西に2mくらいの土塁が築かれている(『日本城郭大系』)。

弘治二年(1556)山県昌景が白馬地方に進攻すると、武勇を知られた飯森春盛は抵抗するように思われたが、一晩のうちに逃亡したことから一夜山城と侮蔑されることになった。春盛は、その後、平倉城で上杉の家臣と名乗って兵を集め、再興を期していたが、再び山県に攻められ、最後は油淵庄左衛門によって討ち取られたという(『信州の城と古戦場』)。

至近にある飯田城との関係が問題で、この城の簡略な備えに対して、飯田城は実に念入りに縄張りされている。一帯の城砦は、武田氏の安曇侵入の頃に大掛かりに改修されたと考えられるが、その造りからみて、飯森氏は、この城を最後に死守すべき城とは考えていなかったように思われる。飯森氏はこの城の限界を承知していて、そのことが「腰掛城」などという名称を生んだと推察できる(『図解 山城探訪』)。

城址へは、長谷寺の北100mのところに登山道がある。そこからは、ゆっくりと20分も歩けば主郭。尾根道が長く、辛い登山ではないが、頂上からは周囲一帯が見渡せる要衝の地形である。

(宮坂武男著『図解 山城探訪』掲載の縄張図)

(宮坂武男著『図解 山城探訪』掲載の鳥瞰図)

 

(【左写真】主郭。西側は土塁で囲まれている。【右写真】主郭の土塁は高い。)

 

(【左写真】主郭の大手虎口ははっきりと残っている。【右写真】二の郭。平場だけで遺構は無い。駐屯地か。)

 

(【左写真】三の郭。土塁で囲まれ、物見とも馬屋跡ともいう。 【右写真】搦め手虎口。堀切は無く、すぐに主郭。)

(城址遠望)

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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