塩島城

標高717m、比高55m。

戦国時代、信州の地は上杉・武田、両氏の激突する舞台となったが、安曇地方も両勢力の余波を受けて戦乱が絶えなかった。塩島城は姫川をはさんで三方が断崖をなす要害の地を占め、戦術的には、海陸物資交易の路線である千国街道を押さえ、絶好の位置に置かれている。戦国期の典型的な山城として空濠、曲輪、馬城跡などに往時の遺構を偲ぶことができる。弘治二年(1555)信玄配下の武将・山県昌景によって攻められ飯森城などと共に落城した(『現地説明板』)。

仁科氏の家臣・塩島但馬守勝雄の居城で、伝説では、勝雄は謀反を疑われて正命寺において浴室で惨殺されたが、やがて疑いは晴れて弟・昌賢をして塩島家を復興させたという(『図解 山城探訪』)。

主郭は52m×18mほどの長方形の平場で、西側12m下に土塁を伴なった55m×6mほどの二の郭が続き、東18m下には幅60mもある平場があり、その北は自然地形に近い四の郭がある。二の郭の北下には五の郭があって、これを囲むように空堀を配す(『図解 山城探訪』)。

城址へは、国道148号から信濃森上駅方向に曲がった突き当たりに案内板がある。ただ、そのままでは民家に迷い込んでしまうので、左に曲がって100mほど進むと、同じ案内板があるので、ここから登城すると便利。

(宮坂武男著『図解 山城探訪』掲載の鳥瞰図)

 

(【左写真】主郭。土塁は見られない。【右写真】主郭付近の説明板。)

 

(【左写真】二の郭は主郭を帯状に巻いている。【右写真】二の郭は土塁の内側に空堀が設けられた珍しい遺構。)

 

(【左写真】三の郭。かなり広大。【右写真】三の郭から姫川を見下す。)

 

(【左写真】五の郭に配された大空堀。【右写真】七の郭。主郭とは結構な高低差があり要害。)

 

(【左写真】日光寺跡。日光寺は武田軍の攻撃で焼失したという。【右写真】城址麓。かつての根小屋だろう。)

 

(【左写真】城址遠望 【右写真】城址入口)

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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