石垣山一夜城

天正十八年(1590)豊臣秀吉が後北条氏との決戦に及んだ小田原合戦の際に、小田原城の付け城として笠懸山に築いた本格的な城郭。

秀吉はそれまでの早雲寺からここに本陣を移している。壮大な石垣に囲まれ、聚楽第や大阪城にも劣らない荘厳さであったという。また淀殿や千利休を招いて茶会を催すなど、一個の町の様相をもっていたとも思われる。

現在本丸址と伝えられる場所は相当な面積であり、井戸曲輪などには慄然とした石垣がなおも残存しており、かなりの規模の城郭であった事は懐疑の余地がない。

秀吉は築城後に一気に周囲の木々を切り倒し、あたかも一夜にして城ができた様に見せ、籠城を続ける北条氏の戦意を喪失させ、難攻不落の名城・小田原城は開城された。これによって事実上、豊臣氏の天下平定が成されたと評価されている。

現地縄張図

 

 

(【左写真】天守台跡。意外と狭い。【右写真】天守台は本丸との高低差4,5m程度。)

 

(【左写真】天守台の下には腰曲輪がある。【右写真】天守台の石垣 )

 

(【左写真】本丸跡 【右写真】二の丸から見た本丸 )

 

(【左写真】二の丸跡 【右写真】二の丸にある「櫓跡」。なぜここなのかはよく判らない。)

 

(【左写真】西曲輪。右手上に天守台がある。【右写真】西曲輪の門跡とされる石。)

 

(【左写真】南曲輪 【右写真】南曲輪虎口部。ここに門があったという。)

 

(【左写真】南曲輪の石垣。観音寺城とそっくり。【右写真】井戸曲輪。中心部に井戸がある。)

 

(【左写真】井戸曲輪の石垣 【右写真】井戸曲輪の外面の石垣 )

 

(【左写真】井戸部分の石垣 【右写真】今でも鮮水が湧いている。)

 

(井戸曲輪の下にはいくつかの郭が見られる。削平と切岸の中世的なもの。)

 (後北条氏小田原城から見た石垣山一夜城)

(石垣山から小田原城の展望)

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