御岳山城

標高820m、比高140m。

御岳(みたけ)山城は、長窪古町の西の山沿いに走る長門バイパスの西側、不動沢川に左岸に位置する。不動沢口の北側には堀の内と呼ばれる一画があり、城主の居館跡と思われるが、はっきりしたことは分からない(『図解 山城探訪』)。鎌倉時代にこの一帯に勢力を持っていた有坂氏、和田氏、あるいは依田氏が城主とも推定されるが確証は無い(『新編 長門町誌』)。
城址には御岳社が残っているが、これは養和元年(
1181)依田為重という人物が山麓に城を築いた際に勧請したという(『御岳社由緒書』)。

城の造り、規模、または奥まった位置取りからみて、在地豪族層の要害城として造られたもので、立地からして戦国末期には利用価値は薄れて大きな改修は受けていなかったとされる。また烽火台として利用されたとも思えず、堀の内館主の単独の要害とみるべきという(『図解 山城探訪』)。城址は、御岳社によって改変を受けているのであろうが、山城の様相は良く残している。

城址へは、かつての御岳社への道が尾根上にあるが既に廃され中腹まではハッキリしない。不動沢ダム脇のプレハブ裏に登山道があるものの獣道でハッキリしない。結局、直登が一番早く15分程度。

(宮坂武男著『図解 山城探訪』掲載の縄張図)

 

(【左写真】主郭。御岳社があるがすっかり荒廃している。【右写真】一段下がった二の郭。)

 

(【左写真】小規模な三の郭。【右写真】三の郭下の堀切跡もわずかに残る。)

 

(【左写真】五の郭は最も広大だが土塁は無い。【右写真】主郭裏手の腰曲輪。)

 

(【左写真】腰曲輪は堀切・土橋で守られている。【右写真】土橋から主郭を見上げる。)

(山中には頂上から山麓まで続く竪堀状の地形がある。同様のものは、割ヶ岳城中塔城三才山城檜原城でも見られるが、遺構なのであろうか。また遺構であればどういった目的であろうか。明確なことは分からないが、防御用の竪堀ではなく、往時には、階段が設けられた大手道であったか、城址への物資を直接運ぶ運送路として利用されたのかも知れない。

 

(【左写真】城址遠望。三角形の山の頂上が主郭。【右写真】直登を強いられる急斜面。

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

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