高遠城

比高70m。治承3年(1179)の笠原平吾頼直築城と云われる。暦応年間(1338〜41)には木曽義親が高遠城主となり、高遠太郎と称した。

その後、戦国時代、天文16年(1547)、信濃に侵攻した武田晴信(信玄)は謀略によって諏訪を落とし、高遠頼継を杖突峠にて破り高遠地方を手中に治め、南信濃経営と駿河・三河地方進出の拠点として、また伊那口への要所であるこの城を重視し、秋山信友らに命じ城郭として大改修させた。勘介曲輪という郭が残っており、山本勘介の存在を示唆するとともに同時の大改修を現すものといえよう。

諏訪勝頼(後の武田勝頼)が城主を務め、信玄の歿後は、その五男・仁科盛信が入城。

織田氏・徳川氏に攻め込まれた際に、武田氏の凋落に次々と裏切る宿将が連続するなか、盛信と諏訪勢は徹底抗戦した。
しかし、大将・織田信忠以下森長可を先頭に滝川一益らの精鋭織田軍の猛攻を受ける。織田軍は僧侶をもって降伏を勧告したが、盛信はその耳・鼻を切り落として返し、籠城の意気込みを明示した。
『信長公記』に信忠自身が防壁を打ち壊したと記載されるほどの猛攻撃を受け、盛信は自腹を斬ると中から腸を引きずり出して絶命し、また一族もろとも壮絶な自刃をして果てた。

名門甲斐武田氏の哀れな滅亡に一筋の光明をさす盛信の奮戦であるが、現在は桜の名所となり、もはや往時の悲劇はうたたかの彼方である。

 
(高遠城・航空写真)

 

(【左写真】本丸址では仁科盛信が自刃した場所【右写真】城址遠望でこの森一帯が本丸址)

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