網代城

標高330m、比高160m。

網代城(東京都あきる野市高尾[旧・五日市網代])は、「城山」とも呼ばれ、いにしえには遠見に使用されたといわれる。その起源は、当地を領した後北条氏の家臣・青木内記であるともいう(『新編武蔵国風土記稿』)。

また、城主は貴志氏(後北条氏家臣)とも伝え、隣村の高尾氏一族が住んで、天正十八年(1590八王子城落城で戦死した者もあったという(『武蔵名勝図会』)。

城の構造としては、最高地点の主郭から東へ二段ほどの袖郭を設けており、西方への尾根先や、南へ延びる尾根を掘り切ってある(『日本城郭大系』)。

『日本城郭大系』によれば、戸倉城高月城を結ぶ中間的城郭で、ここで防備するのではなく、狼煙などによって両城の連絡を主たる任務として築城されたといい、甲斐武田氏に備えるためのものであったのではないかという。
しかし、主郭・副郭はさほど広くなく、尾根の堀切の配置も戦国期の高度さがない。尾根筋の虎口には若干の技巧性を見出せるが、大名傘下による縄張りというよりも、いわゆる「村の城」、村民の避難場所として築かれたとみるのが妥当であろう。

城址へは、「旅館網代」の少し先を南西に入り、「網代会館」の脇に「貴志嶋神社」への登山路がある。それにしたがって登り、「城山」への案内板に進むと、登山口から25分ほどで主郭。

(参考サイト:城郭図鑑

(現地縄張図)

 

(【左写真】主郭。土塁などは見られない。【右写真】主郭下の副郭。そこそこの面積だが削平は甘い。)

 

(【左写真】副郭の土塁とされる高み。【右写真】副郭には帯状の郭が見られる。)

 

(【左写真】尾根上の堀切。小規模なもの。【右写真】大手虎口。一応、屈折を持たせている。)

(主郭からの都心方面の眺望)

(城址遠望)

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

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