小沢古城

標高80m、比高20m。

武蔵七党のひとつである横山党小沢氏が拠った城といい、小沢城と対を成す位置にあるが、その歴史的区別はなかなかはっきりしない。

この城の初見は『太田道灌状』といわれ、文明十年(1477)関東管領山内上杉家の家臣である長尾景春の乱に呼応して金子掃部助が「小沢というところに要害を築いて」立て籠もったという。太田道灌に攻略されたが、この時小沢城は堅城であって約2ヶ月間も持ちこたえたという。

もともと城主であった小沢氏は同じ横山党の田名氏・小倉氏らと相模原地方を支配していたものの、建暦三年(1213)和田義盛の乱において和田氏に加勢して没落。小沢氏のこの一帯における支配力も急激に弱まったという。

長尾景春の乱に敗れた金子氏であるが、その後も豪族として存続し、後北条時代にもこの城は使用されたといい、後北条氏特有の遺構が認められるという。相模原市の田名に相模川を渡る高田橋が架かっているが、その愛甲郡側へ渡ったすぐの場所。還浄寺の裏山一帯が城址、かつて寺の場所にはすり鉢上の土塁があったという(『神奈川の城』)。

尾根筋には堀切とも思える地形が残っており、頂上部は平坦地が残る。しかし荒れており、どこまでが遺構かは明確でない。

 

(【左写真】頂上部の平坦地。周囲は断崖だが面積は狭い。【右写真】段郭とも思える平坦地あり。)

 

(尾根筋には、堀切とも思える地形が三箇所ほどあるが、遺構かは不明。)

 

(【左写真】相模川沿いの要害 【右写真】城址南側は、掘削され、破壊されている)

 

(近くに諏訪社があって城址の看板もある。登山道は諏訪社の裏手から。)

 

 (近くに面する相模川には小沢渡船場が古くからあった。小沢川と相模川が合流する要衝地。)

小沢城から見下した遠望。南側は山ごと削り取られている。)

 

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