医王寺城

臼田城、桜井山城、下の城とも。標高772m、比高75m。

医王寺城(長野県臼田町大字臼田字医王寺山〔佐久市臼田〕)は、医王寺の裏山、佐久平を一望にできる丘陵の突端部一帯に位置する。
西側、標高869mの峯山頂には、「経塚」と平場があり、一説に狼煙台とされ、“上の城”と呼ばれている(『長野県の中世城館跡−分布調査報告書−』)。

延徳元年(1489)佐久の地が村上氏に属すると、村上顕国の子・顕胤が、武田氏に備えて築城したと推定される(『南佐久郡古城址調査』)。

天文九年(1540)五月、板垣駿河守は武田信虎の命を受け、大将として佐久に侵攻。臼田城(医王寺城)・入沢城を始めとして、数十城を破り、前山城を築いて陣した(『妙法寺記』『塩山向岳禅庵小年代記』)。

天文十八年(1549)武田軍が平原城を攻めた際、「桜井山」に入ったと『高白斎記』は記しているが、その陣場は、稲荷山城ではなく、医王寺城に比定されている(『定本 佐久の城』)。

城址は、東側は断崖の地形だが、西側は緩慢な傾斜で要害性は低い。
主郭(または物見台)と思われる高台とその周辺に複数の郭があり、大規模な空堀も残っている。
縄張りとして高度さはないが、城郭としての規模は大きかったらしく、籠城よりも陣場に近い構造を有している。ただ、二の郭あたりまでは比較的明瞭だが、それ以降は果樹園となっており、雰囲気は失われている。

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

(長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡-分布調査報告書-』掲載の概念図と航空写真

 

(【左写真】主郭。一段高いのが物見台と思われる。この辺は良く残っている。【右写真】主郭から物見台への虎口。)

 

(【左写真】頂上である物見台。小規模で簡単な郭。【右写真】「二の丸跡」になっているが、物見台にある城址板。)

 

(【左写真】城址の東側は断崖になっている。【右写真】物見台から佐久平の眺望。早朝6時過ぎ。)

 

(【左写真】主郭と二の郭間の空堀。大規模だったことが想像される。【右写真】二の郭。耕作地となった。)

 

(【左写真】二の郭から主郭方向を望んだところ。【右写真】二の郭先の空堀跡。左側の土壇上に神社あり。)

 

(【左写真】二の郭以降は果樹園となっており、城域を定めるのは困難。【右写真】城址東山麓にある医王寺。)

(城址遠望)

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