雁峰城

標高801m、比高62m。雁峯城、小田切城、ガンダレ城、草間城とも。

雁峰(がんぽう)城(長野県佐久市中小田切)は、片見川を北にした丘陵の末端部に位置し、北方には佐久平が広がる。北西に真向かいに向城、西側2.5キロに上小田切城、北西2.5キロに湯原城、北東3.5キロに稲荷山城があり、一大城砦地帯である。

この地方は戦乱が絶えず、大永七年(1527)には、伴野氏の要請に基づいて武田信虎が侵攻している。「二月小朔日乙曲二日、小田切落城」(『高白斎記』)とあり、2月2日に落城している。

天文九年(1540)五月、武田晴信は、板垣駿河守を大将として侵攻し、佐久の数十城を落としたが(『妙法寺記』)、この時、落城したものと考えられる。

その後、村上義清が、その麾下・小田切駿河守幸長に守らせたという(『日本城郭全集5』)。
小田切幸長は、以後も武田氏に抵抗を続け、
弘治三年(1557)二月十五日、上杉方の葛山城に篭ったが、室賀城主・室賀兵部の家臣・山岸清兵衛に首を討たれている(『信濃史料』所収武田晴信感状)。

天正六年(1578)には、「小田切上中下 九貫五百文 代官 草間右近」(『上諏訪造営帳』)とあり、草間氏が居たことが分かる。

城址は、陽雲寺から登る道が大手とされる(『図解 山城探訪』)。
「全山耕作され、細部は失われているが、曲輪を重ねる縄張りで、広大な腰曲輪がみごとで、古式ながら旧状をよく伝えていて貴重な遺構」(『図解 山城探訪』)。

陽雲寺から10分弱も登れば虎口曲輪(三の郭とも)に辿り着く。そこからは随所に削平地があり、最高部の主郭を含めて、いずれも広い。この主郭には土塁の残片も認められる。また。尾根筋は大きな堀切で遮断している。

山全体が城郭として整備されており、住居地として利用されたようで、要害性を重視した技巧的な縄張りにはなっていない。この現状から見るだけでは、中世の城郭というよりは、江戸初期の平山城といった印象も与えられる遺構である。戦国時代、この城を中心として住居を構え、周囲に防御用の小城を複数配したものであろう。

(国土地理院発行の2万5千分1地形図)

(城砦群のある小田切地方の航空写真)

 

(長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡-分布調査報告書-』掲載の概念図と城址の航空写真

 

(【左写真】主郭の祠。【右写真】主郭。かなり大規模で本格的な城郭である。)

 

(【左写真】主郭南端に残る土塁片。【右写真】主郭の一部に見られる石積みの跡。)

 

(【左写真】主郭の北下の二の郭とも言うべき曲輪。【右写真】二の郭から主郭を見上げる。)

 

(【左写真】さらに北側の郭。大手虎口を守る重要な曲輪。【右写真】大手虎口。単純な造りだが両側から攻撃される。)

 

(【左写真】大手道筋に見られる段郭。【右写真】陽雲寺から登る道が大手と言われている。

 

(城址南の尾根を断ち切る大堀切。岩盤を削ったもので、かなりの大きさ。)

(城址遠望)

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