古志賀谷太郎館

古志賀谷太郎館(★埼玉県越谷市御殿町)は、元荒川が蛇行し、舌状の突端になった地にあり、久伊豆神社の対岸に位置する。

「御殿」「元御殿」という地名だが、それを含めた全地域がかつての館跡と考えられ、会田喜一郎氏宅に良く面影を残していたという(山崎善司氏『古志賀谷氏館跡と板碑』(越谷市郷土研究会))。

当地には建長元年(1249)板碑が残るが、古志賀谷氏館の痕跡は、地形のほかには、確実な手掛かりとしては、この板碑のみだという(『古志賀谷氏館跡と板碑』)。

その後、天文〜弘治年間には、会田出羽資清の屋敷となり、慶長九年(1604)には、徳川家康の御殿となった(『古志賀谷氏館跡と板碑』『新編武蔵国風土記稿』『越谷市史』『日本城郭大系』『現地説明板』)

越谷の語源となった「古志賀谷(こしがや)」であるが、その出自は不明である。初見は『千葉大系図』で、古志賀谷二郎為基が、武蔵七党のうち野与党に属し、地頭に補任された記されており、建保-建長年間(1215-1249)頃の人物と推定されている(『古志賀谷氏館跡と板碑』)。

現在、遺構は何ら残されていない。ただ「御殿町」という地名だけがそのよすがを伝える。なお、元荒川沿いに石碑と説明板が建っている。

 

 

(国土地理院発行の2万5千分1地形図名と御殿町の航空写真)

 

(跡地である御殿町の町並み)(対岸から見た御殿町)

 

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