戸塚城

戸塚城(★埼玉県川口市戸塚南)

日本城郭大系』には巻末一覧に「小宮山弾正介(成田氏の臣)の居城。土塁・空堀」と記されている。これは『新編武蔵風土記稿』等に拠るものと思われる。

近年まで遺構があったようであるが、現在は埼玉高速鉄道「戸塚安行駅」の開発により、周辺は宅地化が進んで、「城山」と名を残すマンションがあるだけで、城跡は見る影も無い。

小宮山氏

小宮山氏は甲斐武田氏の家臣。
小宮山丹後守昌友は、武田信玄の重臣で、信濃諏訪城、上野松井田城の城代だったとされる。元亀三年(1572)遠江二俣城攻めで戦死。

小宮山丹後守の嫡男・小宮山内膳正友晴は、使番十二人衆の一人。跡部勝資、長坂光堅、秋山摂津守と不仲で、長篠合戦で逃亡した武田信廉など御親類衆も批判し、小山田彦三郎の讒言にあって蟄居させられる。
だが、武田滅亡の折には、恩返しのために天目山(田野)に馳せ参じて勝頼の許しを得、鳥居畑で討死を遂げたという(『甲陽軍鑑』)。
この時、友晴は土屋惣蔵から跡部、長坂、秋山のいずれも既に逃亡したと伝えられると、涙を流して「勝頼公は御運がない。御眼鏡違いの衆ばかりを側に置いたから」と嘆いたと言う。しかしこれは『甲陽軍鑑』特有の跡部氏、長坂氏を痛罵する筆致と言えよう。

小宮山内膳正の弟・拈橋一宮町広厳寺の七世住職)は、勝頼自刃後に田野に赴き、屍をひとつひとつ調べた。敵味方混乱した状況だったが、武田の家臣は太刀に名前を朱書きしていたので手厚くこれを葬ったという。彼は天正十年(1582徳川家康により武田勝頼の菩提を弔うため景徳院の開山となる。天正十九年(1591)歿(『景徳院寺記』)

その一族が小宮山弾正介忠孝であり、成田氏の旗下として足立郡戸塚を領地とした(『wikipedia』)。

 

 

(城跡付近。すでに面影は無い。)

 

2014年9月15日訪問

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