尼厳城搦手砦

標高770m、比高400m。

非常に険しい尼飾山・本城の搦め手、谷を挟んだ奥の峯の頂上にあり、東条信広が築城したと思われる。
本城(尼厳城)と同様、天文年間に真田幸隆が数回の攻略ののち落城させたのであろう。
もしくは、本城の向かい城として真田氏が構築したものか。

弘治二年(1556)武田信玄が来たる上杉謙信との川中島合戦に備え、川中島に至る謙信側の軍事拠点である尼飾城を真田幸隆に攻めさせ、援軍として春日正忠軍を投入、堅固をもって誇る尼飾城をようやく陥落させたという。信玄はこの城を北国街道の候可峠を監視する為にこの城を取り立てていた。信玄の命によって改修され、普段から籠城衆が置かれて、周囲の城でも特に厳重に警備をさせていた(『真田幸隆宛武田晴信文書』『信州の山城』等)。

その後、尼厳城は、上杉景勝時代に東条氏を再度入城させて海津城の外郭とした。

伝説や歴史のある貴重な尼厳山の裏手(尼厳山と奇妙山の間の峯)で、荒れ果てた頂上近くの堀切と二の郭、三の郭跡らしきものを確認できるが、頂上からの展望はきかない。ほとんど人も入らない場所なのであろう。
従来、この場所は城砦として紹介されていないが、地形から、戦国時代の遺構が認められるのは間違いないところである。

登山は玉依比売命神社から90分の山道を進むのが大手道と思われる(尼厳城)。搦め手砦は、さらに、そこから谷を越えなければならないので50分以上要する。、尼厳山と奇妙山の間の尾根(搦め手口)から訪問するのがよい。尾根に出るまではキツい急登が続き、その後も道が無く藪こぎを強いられる(80分程)。

尼厳山の隣の峰であるが、未発表の遺構が確認でき、堀切や郭、石積の一部が残っている。しかし遭難の可能性も否定できず、相当な覚悟がなければ訪問は推奨できない。

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

  (本城である尼厳城の信濃史学会編『信州の山城』信毎書籍出版センターの縄張図)

   

(砦跡は荒れ果てており調査するのはかなり苦労する。左写真はわずかに見られる堀切址。右写真は井戸址と思われ、木が生えている付近が丸く掘られて石垣に使用したらしい石もある。いずれも頂上付近の郭にて。)

 

(砦の主郭もしくは搦手曲輪と思われる削平地。結構な面積があるものの荒れている。右写真はそれをめぐる堀切。わずかな遺構だが、石垣の石が転がっている。)

 

(砦主郭からさらに搦手方面・奇妙山に登っていくとかなり広い平らな場所がある。それが左写真だが荒廃がひどく見て回ることができない。それ以前にこの辺りは全く登山道が不明瞭になり遭難しかねない。右写真は、さらに奥に進んだところの高みにある削平地。礎石らしいものも転がっていて、何らかの建築物があったのかも分からない。)

 

(搦手口を城址に登る登山道。非常に険しく、もはや道の体はない。こんな場所をよじ登る。)
(【右写真】城址から尾根に下って奇妙山へ向う分岐点付近に井戸が残っていて、どうも武田氏時代のものに感じられた。が、どうやら後年の炭焼址らしい・・・・。)

 

(搦手の岩沢地区の登山道に見られる石積み。どうもこの山は岩に事欠かないようで、自然に崩落した石がごろごろしている。この二枚の写真はそれらの石を後世の人が積んだのか、戦国期の遺構ではないだろう。山頂の城址にはあまり石積みが見られないし、この辺りに石積みを造るべき防御施設はない。また、威嚇の為というのも考えにくい。ちなみのこの付近でヘビに出くわした。攻撃してこなかったのが幸いであった。)

(搦め手登山道に見られる石垣。後年、奇妙山への登山道整備の際のもので、遺構ではないだろう。)

 (尼飾山全景。ロッククライミングの名所になるくらい非常に険しい山で、ゆっくり登れば往復2時間半くらいかかる。尼厳城から谷を隔てた奥の頂上に位置する。本城の大手から搦手に抜けるなら3時間程度。奥にそびえるのが奇妙山。このような急峻な山に城があったのはまさに感嘆する。もはや城めぐりのレベルではない山だった。)

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