林城

標高846m、比高210m。

信濃守護の小笠原氏が本拠とした山城。佐久地方を平定し信濃統一野望高々強い武田信玄は天文十八年(1549)に塩尻・勝弦峠で小笠原長時を破り、林城に退去した小笠原氏であった。小笠原氏は360年の歴史をもって府中を中心に多くの城を持っていた。ことに建築から60年経つ林城は近くに小城も配した豪壮な山城であった。

家主の小笠原長時は気ままで人に嫌われた人物であったというが、武田氏の強行な乱入に小笠原家の士気は低迷するばかりで、武田軍に支城を次々に陥落させられていった。『高白斎記』によれば支城の落城を祝って信玄の軍師の駒井高白斎が勝鬨の儀式を執行している。ついに府中の深志城も落ち、部下が次々と離反する中、長時は万事休すと、一戦を交える事もなく、村上義清を頼って落ちていった。林城を手にした信玄であったが、これを廃城にして深志城を改修した。

今でも本丸の石垣や二の丸、三の丸、馬場址、空堀址などがよく残っている。その規模は非常に雄大で、全国でも有数のものである。周囲は険しい断崖に囲まれており、ここに籠もられては指し物信玄も容易に落とす事はできなかったのではないかと思わせるほどである。

戦国乱世を知る者であれば松本城はこの城を支えるに過ぎない些細なものであった事が判る。今では松本城は国宝として、興味・知識あるを問わず、数多の観光客が訪問している。一方、林城は今では訪れる人もほとんどない。

(左は林城の本丸址。かなりの面積で土塁は石垣に守られている。中央は二の丸と三の丸間の堀。なかなかの深さで、城址には延々と郭址と思われる削平地が続き、その規模が雄大であったのが見てとれる。右は全景でこの山一帯が城址。)

(本丸石積み)

(奥の山が城址)

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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