平倉城

標高823m、比高294m。小谷城、白米城とも。戦国時代、飯森氏の築城。

平倉城は、姫川の右岸に位置し、平倉山の南面中央から西斜めに三段の郭が構築されている(『日本城郭大系』)。応永年間(13941428)頃、飯森山城守平朝の家臣・盛照という人物が在住し、ここを拠点に小谷地方の支配を行ったという(『信府統記』)。

戦国時代、武田・上杉両氏の抗争が続いたが、現在の白馬村神城飯森の飯森城に居城していた飯森春盛が武田氏の武将・山県昌景の攻撃に遭って敗走し、この城に逃れた。しかし、この城は兵糧や水に恵まれなかったため、籠城もままならず、弘治三年(1557)七月に小谷衆の一人・山岸豊後らの援軍もむなしく落城し、城主春盛以下が討ち死にしたという(『日本城郭大系』『長野県町村誌』)。

平倉山の頂上部は、面積の無い岩石ばかりの地形で、これといった遺構は見られない。その下段には堀切らしき地形、平坦部(主郭だったと思われる)があって、その下方には平場群が続いている。しかし、いずれも満足できるような遺構とまでは言えない。もともと急場に築かれた未完成の城郭という印象を受ける。

城址へは、国道148号の姫川橋の交差点を東に入り、トンネルを越えた分岐点に城址案内板がある。それに従って北上し、黒倉集落の道端に登山道がある。すぐに神社があって、道がよく分からなくなるが、裏手に進んで正面を登っていく。以降登山道はついているものの、地滑りが散見され、道に迷う場所も多い。したがってキツイ40分以上の登山は覚悟したい。

(宮坂武男著『図解 山城探訪』『現地説明板』掲載の鳥瞰図)

 

(【左写真】頂上部。見晴らしはいいが、狭い。周囲は超断崖。【右写真】頂上の「首かくしの洞穴」。)

 

(【左写真】主郭背後の窪地。堀切にも見えるが、疑問もある。【右写真】主郭。平坦部が広がっている。)

 

(【左写真】主郭の「平倉神社」。【右写真】主郭には城址木碑と説明板がある。)

 

(【左写真】主郭東側にある「秋葉様」曲輪。【右写真】「秋葉様」曲輪から主郭を望む。地滑りしている。)

 

(【左写真】中腹には小峯があり、物見台があったとされる。)

(【右写真】山麓の「切った屋敷」跡。平倉城を攻落とした後、武田方では一門一族の残党狩りを行い、生き残った者、傷ついた者を捕えて、男は皆切ってしまった。その場所を「切った屋敷」と言っている。この時、ある家のお婆さんは十才くらいの男の子の孫を救うため女装させ、検分役人の前へ引き出された時、男根を股から後へ廻して押え、女と見せかけて難を逃れたとのことである。『現地説明板』)

(城址遠望。各所が地滑りしている。)

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

(【左写真】登山道入口。倒れた案内棒がある。【右写真】ほどなく神社が鎮座。裏手に進む。)

 

(【左写真】長い登山では、急斜面で難所も多い。【右写真】地滑りした斜面を登る場面も。)

(登山道脇に残る雪)

 

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