興国寺城

興国寺城は、根古屋と青野の境にある篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれている。この城は、戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の祖である北条早雲旗揚げの城。

北条早雲は初め伊勢新九郎長氏と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼り、今川氏に身を寄せていた。文明八年(1476)義忠が急死すると、その後の相続争いに今川氏親を助けて功があり、長享二年(1488)頃、富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となった(『現地説明板』『沼津市資料』)。

この後、長氏は延徳三年(1491)伊豆韮山の堀越公方足利茶々丸を襲って伊豆国を平定し、戦国大名としての第一歩を踏み出すが、興国寺城自体は継続して使用され、永禄十二年(1569小田原城の支城となる。その後、興国寺城は戦国大名の争いの渦中におかれ、今川氏、北条氏、武田氏、徳川氏などの勢力下となり、慶長六年(1601)徳川家康の家臣天野三郎兵衛康景が一万石の城主となる。慶長十二年(1607)康景と駿河代官・井出志摩守正次との争いで、康景は自ら逐電し廃城(『日本の名城・古城事典』『現地説明板』『沼津市資料』)。

尾根の先端部を利用した連郭式縄張りで、北から北曲輪・本丸・二の丸・三の丸の順に配され、北曲輪と本丸の間には大空堀がある。本丸は標高36m、土塁内側で東西60m、南北50mの規模があり、北側土塁の最高部には約300uの平坦地があり、ここが天守台跡と伝えられている。本丸南方には石火矢台(石火矢は大砲という意味)があり、三の丸南端にも土塁の跡が残されている(『現地説明板』『沼津市資料』)。

(現地案内図)

 

(【左写真】城址木碑 【右写真】北条早雲の石碑)

 

(【左写真】天守台と伝わる場所。最高地にある。【右写真】礎石や石垣が残るが、早雲時代の遺構ではないだろう。)

 

(【左写真】本丸。広大で土塁が四周している。【右写真】本丸土塁は戦国後期を思わせる規模。)

 

(【左写真】西櫓台 【右写真】本丸裏手の空堀は極めて大規模。城址最大の見所だろう。)

 

(【左写真】北曲輪・北丸。荒れているが堀跡も残る。奥に天守が見える。【右写真】その北は新幹線が。)

 

(【左写真】二の丸。かなり広大。【右写真】三の丸は民家に埋もれているが、発掘中〔2006年7月〕)

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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