小田原古城

(後北条氏時代)

 標高123m、比高110m。十四世紀末期に土肥氏の築城と伝わる。

明応四年(1495)北条早雲(伊勢新九郎長氏)が大森藤頼への謀略で奪取したといわれている。以後、氏綱、氏康、氏政の四代に亘り後北条氏の本拠となる。町屋と城内に取り込み、天下無双の堅城と評された。

永禄四年(1561)には上杉謙信に、永禄十一年(1569)には武田信玄が攻めるものの落とせなかった。上杉謙信は「後北条氏の息の根をとめるのが目的ではなく、関東の諸将に、謙信が関東管領に就任したことをアピールする」目的であり、信玄の攻城についても、「本気で小田原城を攻めようとしていたようには思えない。威嚇的な出陣であった。」とされ、信玄の本格的駿河侵攻への布石であると解されている(小和田哲男氏)。

ともかく、名城の名をほしいままにしていた小田原城も天正十八年(1590)には天下統一を目前にした豊臣秀吉21万の軍勢に包囲され、約4ヶ月の籠城虚しく落城、100年に亘る北条五代の関東支配は終焉を迎えた。

現在の小田原城天守閣から線路を越えたすぐ向いの「八幡山」一帯が後北条氏時代の城郭主要部で、中世の遺構が複数確認できる。一方、近世小田原城域にも遺構があるが、後北条氏時代のものかを明確に峻別するのは困難。

(小田原古城自作縄張り図)

 

(【左写真】八幡曲輪。裏大門があったという。 【右写真】八幡山の頂上で物見台跡)

 

(【左写真】小田原高校正門脇の空堀 【右写真】バス停「小田原高校入口」周辺は惣構の跡である)

 

(【左写真】惣構の大規模空堀 【右写真】お鐘の台削平地。非常に広い。)

 

(【左写真】お鐘の台土塁 【右写真】お鐘の台大堀切で、城址では最大の遺構。)

 

(【左写真】蓮船寺間堀切 【右写真】中堀。クランク状になり土塁が囲む。)

 

(【左写真】「城山陸上競技場」。かつての御前曲輪。 【右写真】鍛冶曲輪。小田原高校のテニスコートになっている。)

 

(【左写真】小田原高校のグランドでは平成14年に障子堀が発掘された)

 (【右写真】現在の小田原高校は西曲輪跡で、城山頂上付近にある重要な防御地点だった。)

 

(【左写真】本丸跡。残念だが遺構はない。 【右写真】東曲輪。近いうちに高層マンションが建設される。)

 

(【左写真】南曲輪は住宅地になっている 【右写真】城址である八幡山の遠望)

(【左写真】秀吉がはじめ本陣を構えた早雲寺 【右写真】北条幻庵が作成したという庭園

(石垣山から小田原城の展望)


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