石巻下野守康敬陣屋

標高65m、比高25m。玄蕃城、玄蕃新墾とも。

石巻氏は、藤原姓で三河国石巻山出身であり、後北条氏に仕えた。石巻康敬は、初めは左馬允と称し、のちに下野守と改めた。北条氏康・氏政・氏直の三代に仕え、大夫となり、五大夫と通称されていた(『新編相模国風土記稿』)。永禄二年(1559)御馬廻衆として300貫文余を知行している(『小田原衆所領役帳』)。
その後、後北条氏が滅亡すると、徳川家康に預けられ、中田村に陣屋を構えて居住した。
慶長十八年(
1613)十月一日80歳で歿したという(『徳川実紀』)。

跡地は、現在の横浜市泉区中田東1丁目付近と思われる。
もともとあった玄蕃守陣屋が落城し、そこに石巻氏が陣屋を築き直したという。北側の「殿様の森」近くに年貢米を収める御屋敷倉があったといい、白百合公園の南側に位置するが、住宅地となって遺構は見られない(『日本城郭大系』)。

(現在の石巻陣屋付近の航空撮影写真)

 

(【左写真】陣屋付近。遺構は無い。【右写真】陣屋跡地に残る森。付近に兵糧倉があったとも伝えられる。)

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