立川氏館

標高85m、比高3m。立川城とも。

立川氏館(東京都立川市)は、現在の普済(ふさい)寺の境域および周辺部に位置し、寺の北東部と東南部に土塁が残る。かつて南面は崖で、根川が裾を洗っていた。

立川(立河)氏は、立河宗恒が祖であり、その孫・職泰は宝治の乱(1247)で討死にしたという(『武蔵七党系図』)。鎌倉時代には立河基泰という人物が存在していた(『吾妻鏡』)ものの、その詳細は不明である。

この地を支配していた立河一族は、鎌倉時代には御家人として、室町時代には山内上杉氏に従い、また鎌倉公方足利氏に仕えたものとされる(『立川市史』)。戦国時代には後北条氏に属し、北条氏照の臣であった(『武州文書』『水府系纂』)。

城址は、もと単郭式であったものが、方形的複郭式館に拡大され、立河氏が住んで、やがて寺を開いたとされる(小室栄一『中世城郭の研究』)。戦国時代、小田原の陣では再び城砦化されたものとされる(『日本城郭大系』)。

往時は、周囲を二重三重の堀が走っていたと推定される(小幡晋『多摩の古城址』)が、現在は普済寺の境内に土塁が残るに過ぎない。しかし、かなり高い土塁であり、単なる居館ではなく、城砦として利用されていたものと思われる。

(現在の航空写真)

(跡地の普済寺)

 

(【左写真】累々と残る土塁跡。【右写真】一部に櫓台のような高い部分もある。)

 

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