瓦曽根秋山氏館

瓦曽根秋山氏館(★埼玉県越谷市瓦曽根)は元荒川の面した低地帯に位置した。

瓦曽根(かわらぞね)秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であると伝えられています。天正十年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、寛永十四年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれています。なお、瓦曽根村に潜居した信藤は、家康に仕え小金領(現在の松戸市)1,000石を知行した長男虎康の子昌秀のもとに引き取られましたが、この昌秀の妹が家康の愛妾「おつまの方」です。おつまの方は家康の5男、水戸15万石に封ぜられた武田信吉の生母でしたが、天正十九年(159124歳の小金で病没しました。また、武田信吉も慶長八年(1603)嗣子をなくして水戸で病没し、この家は断絶しました。千徳丸の供養墓石は、これら戦国期のさまざまな由緒を秘めた史跡の一つともいえます(越谷市教育委員会『越谷市の文化財』)。

秋山伯耆守信藤は、岩付城織田信長に敗れた、有名な秋山信友(秋山虎繁)の弟とされ、事実なら武田信玄時代からの重臣であっただろう。

瓦曽根は、越谷の水路・陸路の要衝として栄えた村である。照蓮院には甲斐武田氏の遺児千徳丸の供養塔が残されている。古くからの由緒ある地と言える。

 

 

照蓮院と御湯殿山千徳丸供養塔。この寺の付近に館があったのであろう。周辺は秋山氏の墓石である。

(現在の瓦曽根の様子。街道が走っており、常に車の往来が絶えない要衝の地である。)

付近にある「窮民救済の碑」

この石碑は、天保九年(1838)一月、瓦曽根観音堂敷地に稲垣宗輔らが建立した窮民救済の碑である。
稲垣宗輔は、浅草福富町の豪商稲垣氏・池田屋市兵衛方に婿養子に入った、瓦曽根村名主中村彦左衛門重梁の次男である。
天保五年から七年(1834-36)にかけては、全国的な大冷害により関東地方なども大凶作となり飢饉に瀕した人々が数多く、各地で穀物商などを襲って食糧を奪い取る打ち壊し騒動が頻発していた。
この碑を要約すると、中村彦左衛門は代官久保田十左衛門支配のとき、凶年手当用として御貸付所(幕府の銀行)に預金していたが、天明年間の凶作年には、御貸付金の元利金を下ろして窮民に与え、飢饉より救った。
重梁は、その子らにも凶年手当金を備えておくよう遺言して歿したが、稲垣家に養子に入った宗輔はこれを受け、文政九年(1826)浅草猿野町会所御貸付所(当時勘定奉行遠山景元)に凶年手当金として百両を預金し、天保七年(1836)の大凶作にはそこから金九二両を下ろし、瓦曽根村の窮民九二名宛に金一両ずつ施金してこれを救った、との旨が記されている。
また、碑文と歌は、宗輔とは弥従兄弟にあたる恩間村の漢学者兼国学者・渡辺荒陽(瓺玉斎)によるものである。(平成六年越谷市教育委員会)

 

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