子檀嶺岳城

 

冠者岳城、火車ヶ岳城、烏帽子形城とも。(標高1223m、比高670m。長野県小県郡青木村大字当郷)

子檀嶺岳の険しい頂上一帯に位置する。木造の小さい延喜式内旧県社子檀嶺神社が祀ってあり、山麓の土産神であるという。古くからの信仰の山らしく、降雨量が極めて少ないこの地方の農業の神として敬われたという。 子檀嶺は「こまゆみ」と読むが、この地方には古代から牧場があって「駒忌み(こまいみ)」がなまったという。他には、この一帯を治めていた冠者明神がゴマの畑で落馬して、その目をゴマがらで突いて怪我をしたことから、この地域では長らくゴマを作らなくなったとされ、その「ゴマ忌み」から名付けられたともいわれる。

この聖霊の山にいつ頃築城されたのかは明確でない。一説に冠者友武が拠った城で、真田氏の家臣・池田出雲守が守ったとも伝わる(『長国寺御殿事蹟』)。また天正十三年(1585)閏八月に真田昌幸が徳川軍を上田城に迎え撃った際、塩田城衆が杉原四郎兵衛を迎えて大将とし、真田氏に叛旗を翻して隣郷を奪い取った後、この山にあった古城を改修して籠城した。真田昌幸は息子・信幸に追討を命じ、その臣・水出大蔵という者の助言に基づき、堅固な山肌に対して麓から鉄砲を放ち、鬨の声をあげ、堂の戸板を叩いて威嚇したため杉原方は敗走し、真田氏はそれを追って杉原をはじめ多くを捕捉したという(『上田軍記』『小県郡史』『青木村誌』)。また、その15年後に再び真田氏が徳川氏の攻撃を受けた時には、真田の家臣であった小山田壱岐守がこの城を守ったと伝わっている(『信州の城と古戦場』)。

城址は信州100名山にも選ばれる子檀嶺岳の中腹から頂上一帯に遺構が残る。青木村にはこの冠者岳城を中心に多くの山城があり、重要な詰城だったと思われる。頂上部は極めて高地で面積も小さいものの、地形を利用した土木跡が見られる。山の南側はやや緩やかな傾斜であることから多くの小郭が残り、また「大門」という地名もあることから大手道と考えられる。山腹には広大な平地があり「御座敷平」と呼ばれ通常はここに居住していたのだろう。全体的に縄張りは古式・粗野であるが、なかでは「伏勢堀」と呼ばれる空堀が注目される。広範囲に横堀・竪堀が続くもので、兵を伏すために築かれた施設とされるが、この城でしか見られない遺構である。

城址への登山道は3つほどある。遺構をすべて確認するには大手から登る「当郷管社コース」がお奨め。国宝・大法寺三重塔のある当郷から山に向かって進んでいくと駐車場の完備されている。山頂付近は急傾斜になるが、登山道もしっかりしており比高ほど登りはキツくない。登山道入口から約1時間で頂上。

 

(自作縄張図)

 

 (【左写真】頂上。10m×15mほど。削平以外に遺構はない。【右写真】子檀嶺神社

  

 (【左写真】主郭の腰曲輪。石積みなどは見られない。【右写真】大手虎口。堀切と切岸による土塁がある。)

 

 (【左写真】搦手虎口。堀切がかろうじて残っている。【右写真】見晴台(砦)3m×3mの小さいもの。)

 

 (【左写真】大堀切。見晴台(砦)との高低差は10m程度。【右写真】砦から見下ろした大堀切。)

 

 (大手道の中腹には多くの小郭がある。)

 

 (【左写真】小郭の一部には石積みらしきものが残る。【右写真】小石がごろごろしており「つぶて」か?自然崩落か?)

 

 (【左写真】「大門」と呼ばれる場所。遺構はないが、この先に小郭が連続するので、重要な虎口があったのだろう。)

(【右写真】伏勢堀。幅7m深さ1.5m。夏場でも確認できる。敵兵の進攻を止めるというよりも、兵士を隠すのに適した配置。また阿鳥川の源流につながることから水を運ぶ物流路だったとも思われる。)

 

 (【左写真】「御座敷平」。『小県郡史(大正十年版)』によれば、明治三十九年(1906)開墾の際に鉄製の鉾、刀、土器片が出土したという。)

(【右写真】「当郷管社コース」登山道入口。4台ほどの駐車場もある。「頂上まで約2時間」と書いてある。)

 

 (【左写真】当郷から見た子檀嶺岳。【右写真】見晴台と主郭の間には複数の堀切が配置されている。)

 

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