上野原城

この城址に初めて館を築いたのは古郡氏である。古郡氏は武蔵七統のひとつで、上野原一帯を支配していた。建暦三年(1213)、三代・保忠の時に、北条義時と和田義盛の合戦で破れ滅亡した。その後、武田氏の家臣・加藤氏が入城する。加藤氏は藤原鎌足の末裔といわれ、甲州・玉穂町に領地を有していたが、武田晴信の命によって後北条氏の押さえとして上野原に派遣された。加藤氏は、上野原七騎とともに後北条氏攻めに活躍し、八王子城を攻略したときの廿里の激戦三増合戦などで手柄をたてた。天正十年(1582)三月、武田勝頼が天目山に逃げるのを聞き、加藤景忠と長男・信景は主君救援のため、一族をあげて西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎に差し掛かった折、後北条氏の大軍に囲まれ、ほとんどが戦死したといわれる。また一説には武田氏の滅亡に不安になり、箱根ヶ崎に落ちて行き、土地の一揆によって滅亡したとも伝わる。今も瑞穂町の加藤神社や円福寺には多くの遺品が残されている(『上野原町教育委員会・現地説明板』)。

遺構はなく、説明板だけが城址を偲ばせる。国道20号を上野原IC方向に進み、上野原消防署がある中央道に架かる橋手前の交差点を諏訪方向に曲がり、300mほど中央道沿いに進むと小さい神社がある。

 

 (【左写真】城址は中央道で完全に消滅した。【右写真】稲荷神社。城址説明板が設置されている。)

 

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