江戸城

江戸城は、武蔵の上杉定正が家臣の太田資清の子・資長(のち入道して道灌)に江戸城を築くことを命令し、これが起源であるといわれている。約一年間を費やして築かれた江戸城であるが、当時は海岸線であり、その場所はさらに200年程前に住んでいた豪族江戸氏の居館の跡であったという。道灌が上杉定正によって糟屋館で謀殺されると上杉家の直接支配となって、曽我氏を城代として置き、永正二年からは上杉氏の居城となる。

その後、後北条氏が上杉氏を追放すると江戸城は後北条氏の属城となり、以後約70年余にわたって重要な武蔵国の軍事拠点となる。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原合戦で後北条氏は滅亡するが、小田原城開城の2ヶ月半も前に江戸城は既に落ちていたようである。秀吉は小田原の合戦の論功行賞として、徳川家康に後北条の領地であった関東八ヶ国を与えて江戸城を家康の居城とする事にした。

家康が入城した当時の江戸城は、いまの旧本丸、二の丸、三の丸の区域で、濠も非常に狭かったという。2年後の文禄元年になってはじめて西の丸の創建に着手、翌年これを完成させる。現在の皇居の宮殿地がそれにあたり、当時はこれを新丸と呼んでいた。その後二代秀忠、三代家光の時代に拡大整備され、大城郭が完成したのは寛永十三年(1636)の家光時代であるといわれる。

東京に住みながらいつも素通りした史跡。改めて城郭として見れば日本最大の錚々たる規模。

 

(【左写真】日比谷方面を望む【中央写真】土塁の上にも石垣が配されている【右写真】桜田門)

(【左写真】大手門【中央写真】大番所【右写真】本丸址)

(【左写真】本丸付近には渋い石垣もあり【中央写真】天守台【右写真】天守台の焼けた石垣)

本丸付近は皇居がある関係から非常に警備が厳しい。また整備も良くされていて逆に観光地という印象をもつ。

城址好きには北の丸公園の清水門付近がお奨め。警察官もいないし、雑草が茂るところに情緒を感じる。

 

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