千福城

 千福城に関する確かな史料はないようである。『駿河志料』には初め葛山備中守が居を構え、後に御宿勘兵衛政友が居住した城で、山麓の普明寺に館があったと伝えている。御宿氏は葛山・大森氏と同族で、御宿氏は同族の葛山氏と共に今川家に仕え東駿地方に進出して来た北条氏綱や武田信虎と交戦したとされる。

今川義元が桶狭間で横死して氏真が家督と継承し、1568年武田信玄により駿府城を追われ斜陽を極めると、葛山氏は今川氏から離反し、信玄配下となり東駿地方を治めたという。その当時もこの城は御宿氏のものであり、同様に武田氏に属するところとなったのは疑いの余地はあるまい。

一説に御宿勘兵衛政友は、今川家滅亡後武田家に仕え、さらに後北条家に仕官したものの小田原城の合戦で没落、浪人となる。政友の勇猛さを徳川家康に買われて結城秀康の家老となったがその子の松平忠直と反目し出奔、豊臣秀頼の大阪城に入る。大阪の夏の陣で大野治房に従って奮戦し、天王寺・岡山の戦いで岡山口を守ったが討ち死したという。家康が「大阪城には御宿勘兵衛と後藤又兵衛を除いて大物はいない」とその剛勇さを評したと伝えられている。

この城はほとんど整備されていないといって良いだろう。本郭を中心に藪に包まれて調査には難儀するが、削平地(耕作地と化している場所もあり)や竪堀が確認できる。

 

 

(【左写真】本郭。その他にも【右写真】のような郭が多く見られる。)

(郭には畑地になっている場所もある)

 

(山麓の普明寺と城山遠望。この頂上に本郭。)

 

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