中塔城

標高1250m、比高450m。中洞山城、小室山城とも。

長野の山城の中でも高所に位置し、安曇野一帯を治めていた豪族・西牧氏の本拠である北条城の詰の城として築城されたようである。

武田信玄によって林城を追われた小笠原長時は、野々宮の合戦を経て、中塔城主の二木寿斎の勧めによってこの城に退避して立て籠もった。その3日後には武田軍が城を包囲し、そして小笠原氏譜代の山家氏や洗馬氏を先鋒に8合目まで攻め上がってきた。しかし上杉謙信が小諸に動いたので信玄は急遽退却して諏訪に退く。この動静を見て武田軍についていた仁科道外らが密かに城に兵糧の差し入れをしたという(『二木家記』『信州の城と古戦場』)。

その後も武田軍は城を攻めるが、天嶮にあいまって一向に落城させられなかった。しかし小笠原長時がここを下って村上義清を頼って葛尾城に移動すると城兵は支柱を失って開城、二木氏は甲府に送られたが、幸運にも一命を助けられ領地に戻ったという(『二木家記』『信州の城と古戦場』)。

天正十年(1582)武田氏が滅亡し、小笠原長時の子・貞慶が松本平に復領すると、二木氏は彼をこの中塔城に迎えている。二木寿斎はその著『二木家記』で、中塔城は3千の兵で5年間は籠城できると書いている。それは誇張でも、信玄の軍に半年以上も抵抗したのであるから相当に堅固な城であったと思われる(『日本城郭大系』)。

ただ、よく分からないのは、西牧氏の詰めの城であった中塔城が、なぜ本城である北条城と対立したかである(現在の北条城の遺構は中塔城合戦時の改修によるものとされる)。いち早く武田氏に降伏した中牧氏が、その後、小笠原貞慶によって逆に滅ぼされたのに対して、中塔城主の二木氏がなおも存続しているのは、二木氏は中牧氏の家臣であったものの、相当に独立性の高い家であったとも考えられる。二木氏は主君に翻って武田信玄に抵抗して籠城し、それが結果として滅亡を免れたことになったということであろうか。

 

 (【左写真】大手口の堀切)

(【右写真】搦め手・黒沢山口に続く土塁。水の手にも繫がる道で武者走りのようになっている。)

 

  (【左写真】搦め手口の堀切。ここから城域になる 【右写真】本郭。かなりの広さで宿泊は当然可能。)

 

(【左写真】本郭にある窪地。井戸だろうか? 【右写真】郭はいくつも確認 できる。)

 

 (【左写真】本郭にある祠。新しいもので旧祠もあるが倒壊していた。)

(【右写真】大手道。竪堀にもなっており現在も登山道。)

(城址遠望。中央の山の右のピークが金比良山の頂上で、そこから更に比高100mほど登る。写真左ピークが本郭。)

とんがり屋敷から見た城址遠望)

(中塔城本丸から出土した茶釜。『梓川村誌』より

 

(『梓川村誌』より。左側の長方形の本郭から尾根伝いに多くの郭と堀が配されている。本郭から更に200mほど登ると「殿様の水」という水の手があるそうだが、確認できなかった。)

 

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

    

登山道は南黒沢から搦め手に行くのと、中塔集落から大手で登る道がある。大手道の方を利用したが比高450mは半端ではない。

中塔ふるさと公園から南黒沢を登ると林道が二手に分かれるので右へ進む(最左写真)。ここからはジャリ道だがほどなく左2番目の登山道がある。しかし写真を見て分かるように道という体ではなく、よほど注意しなければ見落とすだろう。

ちょっと登ると縦堀の様な窪んだ登山道が二本あるので、それを登るのだが非常に傾斜がキツい。藪化していないのが幸いだが、杖がなければ厳しいほどで、それが延々30分くらい続く。安曇野の山城は5合目まで急傾斜の山が多いがここはその典型。中央写真が登山道で、これを一気に登り切ると尾根に出て、右2番目の鉄塔のある平場に出る。

ここまで来れば城域はもうすぐで比較的楽な山道になる。途中に金比良山の頂上の三角点(最右写真)があるが、城址はさらに登る。堀切が出現したら、そこはもう城内である。登山は片道1時間余。前半の急斜面はとてもキツく、長野の山城でも屈指の堅固ぶりだろう。

 

 

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